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ソールズベリ・コートの騒擾事件(1716年7月24日)

はじめに

 『ニューゲイト監獄付き牧師の談/記事/報告』(The Ordinary of Newgate his Account of the Behaviour, Confessions, and Last Speeches of the Malefactors that were Executed at Tyburn)とは、1670年 代(1679年?)から準定期的な出版がはじまり、ポール・ロレイン師の在職時(Paul Lorrain, d. 1719, 在職1700-1719)に体裁がととのえられた犯罪者の伝記である。あるいは、1号あたりの部数がすくなくとも2,000〜3,000部と推定されるこ とから、18世紀はじめの公的な犯罪報道といってよい刊行物でもある(1)。『牧師の談』は牧師の語る悔俊のプロット にしたがい、統治権力を正統化するイ デオロギーをこめて公共のコミュニケーション空間に提供され、そうでありながらまた、同種の海賊出版物との競争するなかで多様に利用され、ときに盗品や共 犯者の情報を「報告」し、読者のもとめる物語がくり返されもする、共有財であった。

 小論では、おなじ 1670年代に登場したもう一つの犯罪報道である『オールド・ベイリ裁判録』(1674年〜1834年)と接合することにより、『牧師の談』のもつバイア スを相対化しながら、一つの事件を再構成してみたい。一つの事件に焦点をあてることにより、犯罪報道における二つの史料の役割分担を具体的に検討できるの ではないかと思う。さらには、死刑囚にかかわって、もう一つ系統的に追跡することが可能な史料である国王恩赦嘆願状との関係も、照合できるかぎりで言及す る。

 この3種類の史料について所蔵・ 典拠を記しておく。まず『牧師の談』については基本的に英国図書館(British Library)のものを利用した。ESTC(Eighteenth-Century Short Title Catalogue)の検索によれば、ほかにマンチェスタ大学ジョン・ライランヅ図書館やオクスフォド大学ボードリアン図書館にも所蔵を確認できるが、そ れらの異版についてはECCO(Eighteenth Century Collections Online)で収集できた(2)。『裁判録』は、シェフィルド大学人文学研究所とハーフォド大学高等教育電子化サー ヴィスの共同プロジェクトがウェブ上 に検索可能なデータベースとして公開しており、すべての年代についてHTMLのテクストと現物のイメージファイルを無料で利用できる(3)。国王恩赦嘆願 状の由来はすでに論じているので、そちらを参照されたい(4)。基本的には全国公文書館(National Archives,旧名:Public Record Office.2003年より Historical Manuscripts Commission と合併して改称)所蔵の国務文書(State Papers)である。


1. 詳細さと網羅性と信ぴょう性

  死刑囚の伝記として、おそらくはもっともよく知られ、現在も入手しやすいものは『ニューゲイト死刑囚小伝』(Newgate Calendars, 最初の刊行は1774年)であろう。これは、現在のロンドンの地理でいえばハイド・パーク北東隅のマーブル・アーチ付近にあったタイバン処刑場で、公開処 刑にされた死刑囚の情報、たとえば、氏名、年齢、職業・身分、家庭環境、犯行内容、裁判の証言の抜粋、処刑直前のことばなどをおさめたビラや小冊子を、収 集・編纂した出版物である。先行する類似の巻本としては、『血なまぐさき記録簿』(The Bloody Register, 4 vols., 1734-5, 1742, 1764)や『タイバン年代記』(The Tyburn Chronicle, 1768)などがある。これらにくらべて『小伝』は、語りの様式がなめらかに一貫性をたもち、字句・文言のスタイルに統一性をもたせ、読みやすくする工夫 をほどこした点に特徴がある。あくまで一種の読み物であり、それぞれの犯罪者について編者がじかに調査をおこなった報告書ではなく、『裁判録』や『牧師の 談』、さらにはもろもろの海賊出版物から題材をとって仕立てなおされた作品であるため、全体としての記述の正確さ、内的な整合性には疑問符がつけられる (5)。さらに、『小伝』におさめられた犯罪者と事件は網羅的でないこと、出版された年代(著名なのは1826年版) がじっさいの犯罪事件の発生した時点 から100年を経過したものもあることなどに注意がいる。つまり、どのような基準でその犯罪者と事件が選択され、出版されたか、というやっかいな問題が存 在するのである。

 これらとは対照的に、『裁判録』はオールド・ベイリにおける裁判を逐一に記録する形式をとる。もっとも、現存する最古の『裁判録』は1674年4月の開 廷期をとりあつかい、「いくつもの審理はあまりに退屈なので掲載しようにも無理であった」(6)として網羅的でない。 そのほか、1670年代には1回の開 廷期について複数の出版業者による異版も存在し(7)、扇情的であったり、独善的な判断をともなったりして、チャップ ブックにちかい内容であった。また、 「みなさまにわたしがお示ししようとするのは…・‥(I shall show you…)」のような語り口は、『牧師の談』を彷彿とさせるところもある。しかし、1679年1月にロンドン市参事会が『裁判録』の出版に市長および担当 判事の認可が必要であると命じてからは、ほとんどの審理について簡潔ではあっても言及がなされ、1710年代には証言も、一部とはいえ、逐語的におさめら れるようになる。1695年の出版法廃止につづく18世紀初頭には、新聞・雑誌の定期刊行が拡大するのと競うようにして『裁判録』のページ数も増えてゆ き、1730年代以降は開廷期につき24ページと設定され、年間の索引や裁判相互の参照の導入、証言の逐語的収録や商業広告も充実した。『裁判録』は、売 り手である書籍商にも、読者の一部である法律関係者にも、好評を博していた(8)


図1「緊張してガロウ氏に相互尋問される」


(出典:Allyson N. May, The Bar and the Old Bailey 1750-1850, Chapel Hill: The University of North Carolina Press, 2003, p. 127.)


図2「オールド・ベイリ」


(出典:http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/LONold.htm


 W・ホゥガースの組絵版画『勤勉と怠惰』の10枚目「勤勉な徒弟はロンドン市参事会員となり、その面前へ怠惰な徒弟が 共犯者に告発、連行される」(1747年)や——版画の場面はオールド・ベイリでなく市庁舎の小治安判事法廷であるが——、18世紀末(図1)、19世紀 はじめ(図2)のオールド・ベイリ裁判室のイメージ図像にみられるように、法廷はひらかれた場所であり、被告人、証人、治安官、判事などの裁判関係者にか ぎらず、傍聴・見物する者が多数いた。したがって、『裁判録』の記事の信頼性は同時代人にとって確認が容易であり、かりに記事が事実に反する記述をおこ なったなら、その評判はすぐに低下したであろう。信ぴょう性はもっとも有力な売り物の一つであり、同一審理についてほかの手稿(裁判所書記によるもの)や 公刊史料と比較・検討した研究によれば、法廷内で語られたことについてはほぼ精確に記述されているという。とくに、1710年代からは、証言が第三者によ る要約の形式をやめ、間接話法による記述にかわっており、詳細の度を深めた。こうした詳細さ、網羅性、信ぴょう性ゆえ、新聞・雑誌の記事に生のすぐれた材 料を提供し、また裁判をいっそう大衆的な形式で再出版する資料としても利用された(9)


 『裁判録』の記述にくらべると、『牧師の談』はニューゲイト監獄付き牧師が語る形式をとり、むしろ、『小伝』にちかい文学作品であるかのような印象もう ける。作品としてみると、5部構成の各部がそれぞれに書体や文体や書式を異にするために統一感を欠く。さらには、「ひろく公衆のため」、「善人にはかれら がのぞみ、知る興味をもっていることをったえ」た一方で、「悪人には……悪しき人生にともなう危険と悲惨さを自覚させて……更生させる」(10)という目 的を公言している点で、イデオロギー的であることが明確な出版物でもあった。


 しかしながら『牧師の談』には、すでに近世イングランドの司法が罪刑法定主義にのっとっていたために『裁判録』から欠落した、貴重な情報がおさめられて もいた。犯罪者の履歴である。氏名、年齢、出生地または住所までなら『裁判録』に記載される場合もあったが、前科や起訴されなかった犯罪的行為、共犯者や 故買屋の氏名、盗品(にかんする手がかり)の所在、職歴や教育状況をふくむ生い立ちなどは収録されなかった。これらの情報の信頼性は、作者/語り手である ニューゲイト監獄付き牧師がとくに強調した点である。

「『ま がい物(Sham Papers)』を勝手に出版するなかには、処刑される悪人についての談を提供するとふれこむ者もいるが、そうした文書は足りない点や正しくないところが 多く、ときには悪人の名前や犯行内容さえとりちがえ、死刑の待機中や処刑の瞬間にはっきりと目にするありさまもはとはと誤ってつたえている。……ただ一つ の本物の談は……処刑の翌日の朝8時ころに出版され、……死刑囚にあたえられた数回の説教の眼目が掲載され、……監獄付き牧師の氏名と最下行に出版業者の 名前がくるものである。」(11)

市場で類似の出版物との競争にさらされ、そしてそれを勝ちぬいた『牧師の談』は、死刑囚の告解を独占できる牧師の立場を強調して、その信ぴょう性をうった えた。たとえば、かりに処刑の瞬間のありさまがじっさいといちじるしく異なっていたなら、5,6万人とも記述された処刑場の観客の目によって『牧師の談』 は信用されず、成功はありえなかったであろう。また、ギルドの徒弟記録、教区教会の洗礼と埋葬の記録、裁判記録などの外的な史料と照合した現代の研究者 も、『牧師の談』の記述について、死刑囚の生地、年齢、労働の経験(職業)、犯行の順序について信用できるという(12)


 『裁判録』と『牧師の談』という二つの史料の性格は、語りの形式こそちがっても、じつはよく似ていることになる。前者は、実質上、オールド・ベイリにお けるすべての公判の完全な記録/ある意味で準公式の記録であり、後者はニューゲイト監獄に収監されたすべての死刑囚のそれである。ほぼ同時期に出版が開始 されたこの二つは、犯罪にかんする出版物が追いはぎの大胆不敵ないたずらについて極端にフィクション化して語る娯楽指向から、なにか公的な情報源とみなさ れるものとなる移行を画し、18世紀前半の、形成されたばかりの公共圏における犯罪報道の定番を形成した。このように概観される両者の位置づけを念頭にお き、次節では1716年の一件をとりあげて検討する。


2.死刑囚と裁判

  ポール・ロレイン師が1716年9月21日付けで書籍商ギルド会館近辺に店舗のあった印刷業者モーヒュウから出版した『牧師の談』には、同日、「フリート 街にあるソールズベリ・コートのはずれで処刑された」者たちが掲載され、かれらの罪状として「先の7月24日(火)にそのコートにおいて騒擾罪をおかし た」と記されている(13)。オールド・ベイリでの刑事巡回法廷(oyer and terminer)と収監者刑事裁判(gaol delivery)は年に8回、開催されることとなっており、ソールズベリ・コートの一件は1716年9月6日(木)から10日(月)まで、日曜日をのぞ く4日間におこなわれた審理の一つであった。

現在 のソールズベリ・コート付近の地図

こ の開廷期に は76件の審理がおこなわれ、そのうちの34件に有罪評決がくだった。死刑判決は21件、32名(男20名、女12名)と多く、くわえて1名が以前の開廷 期で申しわたされた死刑判決の執行を決定された。しかし、女10名が妊娠を理由に、男7名がおそらくは判事が恩赦のリストに掲載したことにより執行猶予が みとめられた。蜂起の参加者5名をのぞく11名は、9月19日(水)にタイバンで処刑された(14)

 出版の時間的な順序は相前後するが、ひきつづき『牧師の談』の記事を追跡して、蜂起参加者の死刑囚をあきらかにしよう(15)。 かれら5人は掲載順に、 ジョージ・パーチェス(George Purchase,23歳)、トマス・ビーン(Thomas Beane,22歳)、ウィリアム・プライス(William Price,21歳)、リチャド・プライス(Richard Price,20歳)、ジョン・ラヴ(John Love,16歳)である。R・プライス(ウェールズ・カマーゼンシャ州)以外の4名がロンドンの出身であり、パーチェスのパドル・ドック(Puddle Dock)、ビーンのソールズベリ・コート、ラヴのホワイトフライアズ(Whitefriars)は、いずれも犯行現場の直近である。なお、パーチェスの ソールズベリ・コート以外は現住所が明記されていない。犯行時の職業は、パーチェスが靴工の雇われ職人、ビーンがジェントルマンの使用人、W・プライスが 刀剣師の徒弟、R・プライスが雇われ職人、ラヴはロンドン港の荷下ろし手伝いに従事していた。1701年から1719年までの『牧師の談』からは、男 171名と女37名、計208名の死刑囚の情報を得られるが、年齢は単純平均で28歳、最頻値は22歳であり、出身地はロンドンが40%弱を占める (16)。この点にかぎれば、かれらは平均的な死刑囚像によく合致する者たちであったといえよう。


 つぎに、5人の個別事情をみてみよう。ロレイン師が自分の出版物のために“書くにあたいする”と考えた題材がわかるはずである。


 ジョージ ・パーチェスは『牧師の談』の当該号で最初に記載された死刑囚であり、したがって、死刑に相当すると判断された犯行が、ほかの4人に共通する部分もふくめ てくわしく記述された。パーチェス個人は、「7年間の徒弟修行をソールズベリ・コートの靴工のもとでつとめ、年季終了後におなじ親方の雇われ職人となって いた」。この一件の以前には「いささかの悪事もおかしたことはなく」、「叛乱の煽動が不法行為であり、不吉な結果をもたらすなどとは思いもせずに」、無分 別にも犯行にはしってしまった。情状酌量の余地はあったかにみえるが、しかし、ロレイン師は、パーチェスその他の死刑囚が「『高教会とオーモンド (High Church and Ormond)』とまったく無意味な叫びをあげ、……『ハノーヴァ野郎どもも、国王ジョージもいらぬ。その居酒屋をうちこわせ(No Hanoverians,No King George,Down with the Mugghouse)』に類する、反抗的で悪意に満ちたことばを発」したと断罪した。そうした煽動により、かれらじしんもはかの者たちも興奮がいや増し、 「殺せ、略奪せよ、国民を火にくべよ(kill and plunder,Set the Nation in Flame)」〔原文は間接話法〕とさわぎたてるにいたった。「かれらの所業にいっさいの善意はありえないが」、しかし、ロレイン師の「配慮と説諭によ り……、ジョージ・パーチェスはそれが極悪なる犯罪であり、自分が有罪で、判決は正当であるとみとめ」た。無垢な若者がわずかなきっかけからおもわず知ら ずの大罪を犯し、その重さをさとることなく死刑判決をうけたが、監獄付き牧師の忠実なつとめによって悔いをあらためるという、悔俊のプロットが成立してい る。


 のこりの4名はパーチェスの4割から6割ほどの分量である。いずれも前科がなく、偶然、あるいは結果を考えずに騒擾にくわわったこと、ロレイン師によっ て悔悟にいたったことは共通している。2番目に掲載されたビーンは、父がソールズベリ・コートで料亭をいとなんでおり、そこが出生地であった。「ここ5年 間は軍艦の事務長の使用人として船上にあり、……先ごろのプレストンでの叛乱に不幸にして関与したジェントルマンたちがニューゲイト監獄にきてから は、……使用人をつとめていた」。騒擾において、「居酒屋の看板を〔フリート〕街の方向にもちさり、……荷車に投げこんだ」行為をみとめている。「プレス トンでの叛乱」については次節であつかう。


 W・プライスはホゥバンの聖アンドルー教区の出身であり、「刀剣刃物工の徒弟をつとめて4年がすぎたところであった」。「まったくの好奇心から」「リー ド氏(Mr Read)の居酒屋の破壊に加勢し、……『高教会とオーモンド』などと叫び声をあげた」。母親が助命嘆願をおこなわなかったと報じられたが、誤報であると つけくわえられている。


 おなじ姓をもつR・プライスは、故郷のラングダヴァリで仕立屋の徒弟修行をおえ、ロンドンに上京した地方出身者である。かれはことさらに無知で字の読め なかったことが強調される。悔俊のあかしとして「涙した」という記述も、その印象を強める。


 16歳のラヴも、R・プライスとおなじく「無知な人物でまったく字が読めな」かった。ボタン製造工の徒弟にはいったが、荷下ろしに従事していることから わかるとおり、最下層の港湾肉体労働者であった。ニューゲイト収監後に病気となり、処刑日まで死刑囚監房をでることがなかったため、ロレイン師に「できた のは、彼のために祈ることだけであった」。


 犯行現場のソールズベリ・コートでおこなわれた処刑の場面も、タイバンで執行された通常の処刑の叙述と大差はない。無蓋の荷車ではこばれてきたかれら は、ロレイン師につきそわれて悔罪詩篇をうたい、使徒信経をとなえ、神と国王にゆるしを乞いながら、観衆には自分たちの時期尚早の死を警告とうけとめるよ うに願った。その後、わずかな時間、ひとりきりの祈りがゆるされたあと、荷車がはずされて刑が執行された。この部分の特記事項は、ビーンからロレイン師に わたされた書状である。


「こ の書状は、公衆のみなさまを納得させるためのものです。わたしはお二人のジェントルマン、現在はニューゲイト監獄に収監され、『裁判録』でわたしが使用人 として名前をあげられているお二人と旧知の関係ではありませんでした。週給5シルで、わたしが逮捕される5週間ほど前に雇われたにすぎません。死にゆく者 として明言いたしますが、こちらのジェントルマンの方々は、この一件にわたしがでかけていったことなど、いっさいご存じなかったのです。」

 ビーンの書状は『血なまぐさき事件簿』にも収録されたが、しかし、由来はまったく異なる。ビーンは「最後のことばと呼んでいた書状を、友人のジェントル マンにフリート橋(Fleet-bridge)で託し」、「絞首台にのぼるまでに一部を読みあげたが、途中でとめられたため……、以前からの友人であった 者にわたして、印刷にまわすようにした」という。また、書面の最後には、「これはわたしじしんの筆による本物の原稿であり、奉行に託そうと思う」という文 言がそえられてある。


フリート橋という地名は実在しない。内容 もまた、「死にあたいする行為はいっさいが証明されえなかったにもかかわらず、あらたな偽りの法により、恥ずべ き死へ……わたしは至らしめられた」であるとか、「惨めでとり乱した国民」、「わたしに不利な証言をした者の不正、欺瞞、害意」といった表現など、多少と も大仰で反体制的な言辞が目立つ。寓話の引用もふくむ長い手紙であり、代筆あるいは贋造の疑いはぬぐえない(17)


 5名の『裁判録』は、1716年9月6日におこなわれた2件目の審理のものである(18)。罪状認否の手続きは記 されていない。冒頭で、かれら被告人の 氏名、ビーンについてニューゲイト監獄収監中の2名の謀反人カシ(Cassie)とカーネギ(Carnegy)の使用人であること、この正式起訴が、現国 王ジョージ1世の治世第1年に制定され、家屋破壊を聖職者特権の適用から除外した議会制定法にもとづいておこなわれたことを記述する。


 審理の証人は証言した順に、トマス・アロウスミス(Thomas Arrowsmith)、サミュエル・ゴット(Samuel Gott)、マイクル・バレル(Michael Burrel)、ジョン・コリンズ(John Collins)、ジョン ・へイゼル(John Hasell)、カールトン・スミス(Carleton Smith)、ルーク・ホウィト(ス)ン(Luke Whitton/Whitson)、リチャド・グレイヴズ(Richard Graves)、そしてR・プライスの親方醸造業者(氏名は掲載されていない)の計9名であった。最後の人物は性格証言者であり、かれをのぞく8名が被告 人に不利な証言者であった。


 パーチェスについての証言したアロウスミス、ゴット、コリンズによれば、7月24日に「〔パーチェスは〕棒を手にして1時間ほどその居酒屋のドアの前 に」おり、「投石をおこない、〔居酒屋の〕窓を石と棒で破壊」した。「残骸をはこびだし」たりしてもいたが、そのあいだじゅう、群衆とともに「高教会と オーモンド。ハノーヴァ野郎どもも、国王ジョージもいらぬ。その居酒屋をうちこわせ」と叫んでいた。犯行現場は、被告人をふくめて群衆がおなじ叫び声をあ げ、思い思いの場所で破壊活動に熱中する様相を呈していた。『牧師の談』といちじるしく異なる記述もないが、ロレイン師の記した「殺せ、略奪せよ、国民を 火にくべよ」のような言辞のはげしさはうかがわれない。パーチェスは、「棒は所持していなかった」と抗弁し、叫び声も「これまで生きてきたなかでそういう 類いのことはいったことがない」と否定した。かれは性格証言者2名を法廷に呼んだが、しかし、結果的には出頭してもらえなかった。


 ニューゲイト収監中は病臥したために『牧師の談』の記述がすくなったラヴは、ゴットとコリンズの証言により、「居酒屋の看板ヘロープを投げてひっかける のに加勢し……、グラグラとはずれておちるようにした」あと、看板があったあたりまで「ロープをよじ登った」など、活発に破壊活動をおこなっていた。さら には内部の破壊にもかかわり、コーヒーポットを足で踏みつぶした(グレイヴズの証言)。ラヴじしんによれば、直近をとおりがかったところ、「ある男に押さ れてしまい、倒れないようにロープをつかんだ」のだという。こうしてひきずりおろされた看板をもってフリート街をラドゲイト・ヒルにむかい、「大喜びで駆 けていた」のがビーンである、とへイゼルとスミスは証言した。とくにスミスは、ビーンが「ニューゲイト収監中の二人の謀反人カシとカーネギの使用人であ る」と知っており、翌日〔7月25日〕に「ニューゲイト街でビーンと出くわしたので、かれをとらえた」人物でもあった。この事情のために、ビーンは被告人 のなかでただ一人、みずから犯行をみとめざるをえなかった。


 内部の破壊にいそしんでいたのが二人のプライスであった。カウンタの内側へと入ってそのものをうちこわし、書類をもちだしたのがリチャド(バレルの証 言)、何度か出入りして看板のひきたおしにもくわわり、兵士を殴打したのがウィリアムであった(ホウィトスンの証言)。リチャドの性格証言をしたシュー小 路の醸造業者は、「真っ正直であるが、きわめて愚かで無知な男」と評している。ロレイン師の記述とも一致するところである。


 こうした証言により、関係した被告人全員にたいしてきわめて充分な立証がなされたとされ、「陪審は正式起訴について有罪を評決した」。非常に簡潔な裁判 であった(19)


3.前後の史料

  すでに確認したとおり、1716年7月24日の騒擾にかかわった5人の被告人について関心がよせられたのは、かれらが群衆とともにあげた叫声の内容であ り、ビーンがつかえていたニューゲイト監獄に収監中の謀反人であった。この文脈は『裁判録』の前後を検討することであきらかになる。

 『裁判録』に収録された直前の審理では、おなじ1716年7月24日の火曜日、ソールズベリ・コートのおなじ居酒屋で発生した発砲・殺人事件があつかわ れている(20)。ソールズベリ・コート周辺では、すでに前夜(23日)からこの居酒屋を標的にして群衆のさわぎが 生じており、翌朝になって同店の経営者 ロバト・リード(Robert Read)がラッパ銃をもって店外にでてきた。布告が読みあげられたにもかかわらず、なおも群衆が大声をあげて前進しようとすると、ついにかれは発砲し、 弾は群衆から4,5ヤードほど前にいたダニエル・ヴォーン(Daniel Vaughan)に命中した。ヴォーンが死亡したため、リードは謀殺罪に問われることになったが、弁護側証人の充分な証言により発砲の正当性がみとめら れ、用意した性格証言者の必要もなく放免された。


 リード側の証人13名のうち、アロウスミス、コリンズ、バレル、スミス、ホウィトスンの5名が、パーチェス以下5名を被告人とした家屋損壊事件でも証言 していた。この点からもわかるように、二つの審理はともに、7月23日夜から24日の昼すぎまでつづいた群衆行動において発生した事件をあつかったもので ある。また、アロウスミスが衛兵(grenadier)であり、コリンズが一晩じゅう居酒屋の防衛にあたったこと、スミスは市長から派遣されてソールズベ リ・コートの状況を見聞にあらわれ、ホウィトスン(かれも衛兵?)がリードに発砲をうながしたなどの事情も確認できる。かれらはいずれも治安を維持する側 の人間であり、群衆を構成した者たちにたいして不利な、あるいは敵対的な証言をした。被害者側の証人(8名)は群衆の叫声を、「肉屋をこわせ、床屋をこわ せ、質屋をこわせ(Down with the Butchers,Down with the Barbers... Down with the Pawnbrokers)」(Katherine Bennet)、「居酒屋をうちこわせ」(Thomas Moultfier)、「国王ジョージよ、永遠に。……高教会と国王よ(King George for ever... High-Church and the King)」(William Stratton)と、あいまいに、あるいは攻撃対象を即物的に証言したのにたいして、アロウスミスら5人によれば、「高教会とオーモンドよ、永遠に (High Church and Ormond for ever)」、「国王ジョージも 、ハノーヴァ野郎どももいらぬ。その居酒屋をぶちこわせ」、「国王ジョージを王冠からひきはがせ、ヤツのものではまったくない(will we pull King George from the Crown,Which is none of his own)」などの、政治的なニュアンスをもつ、反政府的な色彩のつよいことばがもちいられたことになる。「国王ジョージ」とは、もちろん1714年8月に 即位したジョージ1世/ハノーファ選帝侯ゲオルクのことであり、オーモンドとはトーリ党を支持しつづけた大物で敬度なイングランド国教徒・高教会派であ り、ジョージの即位のさいに軍人としてジャコバイト復位の鍵をにぎると目された第2代公爵である(James Butler,1665-1745)。「1660年にチャールズ2世が復位したおりの、ジョージ ・モンク将軍に比肩する役割をはたす可能性があった」かれは、1715年6月21日に庶民院で弾劾をうけ、8月8日にパリヘ亡命していたが、1718年に はスペインから軍をひきいてイングランドへの侵攻作戦を指揮した。借財をかさねて保持した軍功と贅沢な生活もあって、国民的な支持の高い人物であった。


 ようするに、叫声とビーンの雇い主はジャコバイトという記号を介してビーンの特記事項と容易に関連づけられる。かれはプレストンでの叛乱に関与したジェ ントルマンの使用人であった。ジェントルマンの名前にあった「カーネギ」とは、おそらくイングランド北部におけるジャコバイト振乱の参加者の一人であった ジョン・カーネギ(John Carnegy)を指す。かれらは、1716年1月から一般恩赦法の成立した1717年7月15日までニューゲイト監獄に収容されていた(21)


 ジャコバイトの群衆行動はアン女王が死去し、国王ジョージが即位した1714年8月1日にはすでにはじまっていた。反乱軍による軍事行動はこれにややお くれて翌15年9月6日、スコットランドのプレイマでマー伯(6th Earl of Mar,John Erskine、1675-1732)が旗揚げして開始され、これに呼応したイングランド北部のジャコバイト軍がランカシャ州まで南下する。だが11月 13日、プレストン近郊で政府軍に惨敗し(同日にマー伯の軍も敗退した)、この叛乱の参加者が70名ほど、翌年になってニューゲイトへおくられた。そのう ちの2名に雇われた使用人の行動にジャコバイトのラベルをかぶせて理解するのは、当然の推論であるし、そうでない理解のほうが困難である。また、「プレス トンのジェントルマン」が収容された後には脱獄のくわだてがあいつぎ、たとえば、4月10日にトマス・フォースタ(Thomas Forster)将軍が使用人とともに脱獄を成功させ、5月4日には14名のジャコバイトが脱獄し、6名を再逮捕できなかった。ニューゲイト監獄において 確実な拘禁を保持できない典獄ピット(William Pitt,在職1707-1732)にかえて、ロンドン市参事会の派遣した監獄常駐監督者の一人が、じつは証人カールトン・スミスであった(22)


 ソールズベリ・コートの居酒屋の前で「読みあげられた」布告とは、前年の7月20日に成立し、「騒擾法(the Riot Act,1 George I,Stat.2,cap.5)」と呼ばれた法律によるものである。もちろん、直接的にはジャコバイトの群衆行動に対処するべく制定された法 律であり、ハノーヴァ朝・ホウィグによって政治的・党派的に適用されたことははっきりとしている。ハノーヴァ朝初期のロンドンにおける民衆抗議をあつかっ た研究によれば、ソールズベリ・コートでの群衆行動とその結果は、ロンドンにおけるこの「騒擾法の最初の刑死者」であった(23)。 さらに居酒屋は、シ ティとサザークに散在し、そこを拠点にしてホウィグの側が「街頭の示威行動を……指揮、操作するための拠点」の一つであった。居酒屋主人リードが400ポ ンドを財務府から居酒屋のうけた損害の賠償金として受領したことからも(24)、この建物の政治性・党派性がうかが えるであろう。首都の民衆的な街頭の世 界において中央政治の与党がしつらえた橋頭堡であり、そこをジャコバイト支持・反ハノーヴァ朝の叫声をあげながら手当たりしだいに破壊する行為は、やはり 政治的・党派的な行為として理解される以外にないであろう。


 リードに射殺されたヴォーンであるが、「群衆の首謀者の一人」とされ、粉炭を運搬する職につく「以前は、ブライドウェル懲治場の徒弟」であったという (25)。もちろん、裁判の結果からすればそのとおり騒擾のリーダであったかもしれないが、しかし、なぜか『裁判 録』には被告人に不利・有利の両方の証言 が収録されており、発砲のさいに「故人は群衆から前へおなじくらい〔4,5ヤード〕でてきていたが、棒など手にしておらず」、また、ソールズベリ・コート の騒ぎと自分は「関係ないから、仕事へゆくつもりだといい、ポケットにパンとチーズを入れた」であるとか、「通りの端に故人がたっていたので、そこをとお り抜けようとして押した。そのとき弾丸が飛んできて故人がもたれかかるようにたおれてきたので、恐怖をおぼえた」と述べられている(26)。また、「検死 陪審は当初、リードを謀殺罪で告発したが、陪審がホウィグ支持者で構成しなおされた。それでも、7名の陪審員が害意のある謀殺罪を、5名が故殺罪を宣し た」という後世の見解もある(27)。市裁判官トムスン(William Thomson)が証言をまとめ、陪審は考慮の上で被告人を赦免したと結果だけを『裁判録』はつたえるが、対立する証言がそのまま記され、どちらが優勢で あるかについて、かならずしも証言内容からは判然としない。この一件にかんしてのみいえば、証言と結果のみを記しただけの『裁判録』は中立というよりも、 むしろ、群衆よりの印象をあたえる。


 つぎのオールド・ベイリ開廷期にあたる1716年10月をあつかった『裁判録』には、フリート街の聖ブライド教区に在住するジョン・ナッシュ(John Nash)がパーチェスらとおなじ犯行により騒擾罪でさばかれ、死刑判決をうけた(28)。先述した裁判とおなじ く、アロウスミス、コリンズ、バレル、ス ミス、そしてサムエル・ゴットらが証言にたち、「鼻に黒いあて布をつけた」被告人がリードの居酒屋とその物品を破壊する姿を宣誓証言した。被告人側の証人 は、3名がそれぞれ1,2文の記述で片づけられ(鼻あての理由の説明と夕食をともにし、午前1時までいっしょにいた女のアリバイ証言)、のこりは幼少期か ら徒弟時代までの性格証言であり、「ここ3,4年の性格を語った者は誰もいなかった」。ナッシュだけが後日の裁判となったのは、騒ぎのあいだに負傷したた めであり、また、かれの死刑判決は執行されなかった(29)。おなじくデランダ某(one Delander)は、騒擾をあおっていた女をとらえたアロウスミスに暴行をはたらき、12月の王座法廷における審理で有罪となったが、最終的には恩赦を うけた(30)。かれらとじっさいに処刑されたパーチェスらの事情のちがいは不明である。


 ナッシュの審理につづいておこなわれたのは、ビーヴァ(James Beaver)、エルドリジ(William Eldridge)、ステイブズ(Hester Stibbs)、ホーンズビ(Eleanor Hornsby)、レイン(Anne Lane)という男2名と女3名についての治安騒乱と騒擾罪の審理であり、結果は各自20マルク=13ポンド6シル8ペンスの罰金刑であった(31)。正 式起訴された犯行内容は、「さまざまな人びととともに、先の開廷期に現国王の治世第1年の制定法にもとづいて重罪の有罪宣告をうけ、処刑された悪人トマ ス・ビーンの死を、公然かつ屈辱をくわえるように祝賀する口実のもと、暴動然として集合したこと」であった。群衆の人数は200から300人、あるいは 「1,000人にちかい」とも証言され、いずれもが白い頭巾をかぶり、白い徽章をつけ、白い手袋をはめ、ソールズベリ・コートに集合したという。巡回法廷 で判事がつかった色彩の演劇を想起するなら(32)、これらは「屈辱をくわえる」どころか、ビーンを無罪とうったえ る表象であった。こうした象徴性にあふ れる行為にたいして、当局側は軍の分遣隊を派遣し、強圧的に取り締まった。


 『牧師の談』へもどり、パーチェスらが掲載された号の前後を瞥見するなら、1号前の1716年9月19日版に、「聖ジャイルズ・イン・ザ・フィールヅ教 区在住」の「トマス・ジヤクスン、別名パーチェス(Thomas Jackson,alias Purchase)」が家宅侵入窃盗罪と路上強盗罪の死刑囚として収録されているのに気づく(33)。「25歳のロ ンドン生まれ、職業は大工であるが、近 年まで軍艦に搭乗・勤務していた」と記述されているだけで、同姓のジョージ・パーチェスのとの関係は不明である。たとえば、ジョージの情報をたどるために 『裁判録』のデータベースで検索すると、1710年8月18日に同姓同名の人物がドゥルーリ小路の群衆行動にくわわり、「高教会とサシュヴァレル博士 (High Church and Dr Sacheverell)」と叫ぶなどして、アン女王にたいする大逆罪で死刑判決をうけており、かれが女王に提出した恩赦嘆願状も存在する(34)。しか し、『裁判録』の証言によれば、このパーチェスはそれ以前にフランドルで兵士として勤務していた。ソールズベリ・コート事件のパーチェスが徒弟期間をおえ た雇われ職人であり、23歳という年齢を考えると、事件の8年前に修行の途中で軍隊に応募した経歴があるとは考えにくい。労働民衆の経歴をたどるのは困難 であるが、ただし、『牧師の談』は最後の注記("N.B.")で、トマス・パーチェスじしんが「明言した」こととして、「先のソールズベリ・コートでおき た騒擾に関与した男の一人」とつけくわえている。同姓のジョージとの関係は判明しないが、『裁判録』『牧師の談』ともにそれについて沈黙しており、はかの 犯罪者の伝記物にもまったく掲載されていない。そのことじたい、両者が無関係で、姓が偶然の一致であるとしめす傍証となろう。記事にするにあたいしないと 判断されたと思われる。


4.推論

  当該の史料の前後を確認することにより、1716年7月24日の騒擾の裁判が前年のジャコバイト叛乱やロンドン民衆の街頭演劇、およびそれらに対抗したハ ノーヴァ朝とホウィグ政権の禁止的な施策という文脈にあったことは了解できたであろう。また、『裁判録』が叙述の整合性を犠牲にしつつも、裁判の証言と結 果をかなり中立的につたえているらしいことも確認できた。そこで気になるのは、『牧師の談』でロレイン師がビーンからうけとった書状、ニューゲイト監獄に 収監中のジャコバイトとソールズベリ・コートにおける騒擾とが無関係であると記した一筆を掲載した点である。もちろん、手紙をわたされたことがありのまま の事実であったからともいえるし、内容も掲載のとおりであったかもしれない。だが、『血なまぐさき記録簿』は異なる内容をもつビーンの書簡を掲載してい た。どちらが真正であるかを単純に決定することは不可能である。現存するものはそれとして、なぜ異なるものが存在するか、意図と効果を考えておきたい。

 以下は推論である。ジャコバイトの文脈からはずれることは、ロレイン師の描いた5名の死刑囚全員を脱政治化する効果をもつ。「高教会とオーモンド」など の叫声は犯行の臨場感を増す事実として挿入されても、破壊行為の興奮にドライヴをかける符牒にすぎず、夢中になって窓ガラスを割り、店の看板をもって街頭 を喜々として走りまわる愚かな若者たちの、景気づけのかけ声にしかうつらなくなろう。たしかに、名前、年齢、出身、職業、収監中のようすなどの記述は、か れら一人一人の具体的な姿を浮かびあがらせるが、しかし、犯行については、前科を一人としてもたない若者たちの軽挙にたいする以外に共感・同情をあつめな い、ごくありふれた道徳的な記事へと回収される。


 『裁判録』から『牧師の談』へと読みつなぐと、検察側の証人の圧倒的な証言、行為を否定するだけの短い被告人たちの証言、有罪評決、収監などの事実の記 述が、人生の語りと罪の悔悟、「警告とうけとめ、愚行から英知を学べ」と願う処刑の場面へと至り、無知であることの道徳的な罪を刑法犯罪に直結させたテー マが語られる。『裁判録』のったえる証言と結果を、『牧師の談』が補足する。そして、強盗も追いはぎも政治犯も、個別の情報はつけくわえられながら、おな じ語りにはめこまれてゆくことで、既存の秩序へと再統合される。二つの報道はこうして読者の好奇心を満足させつつ、うけとめられやすい記事を提供しつづけ たのである。


1) 栗田和典「死刑囚の伝記——18世紀はじめのロンドンにおける犯罪報道」(日本西洋史学会第55回大会公開小シンポジウム「近代 イギリスにおける公共圏」、2005年5月15日、神戸大学)。原稿は、http://homepage2.nifty.com/~k2/cv/works/20050515.pdf に公開してある。

2)ESTCもECCOも静岡県立大学では利用することができない。とくに後者は、いまのところ、日本のいかなる公共図 書館も利用権を設定できていない。高価な全集の購入とその利用頻度、研究者の海外での資料収集の手間と費用、あるいは「場所ふさぎ」として資料を捨てる図 書館の自己否定行為などを考慮するなら、CDやDVD媒体の資料やオンライン・データベースの利用権確保は、いまや図書館・情報センターにとっての第一の 優先事項であろう。


3)The Proceedings of the Old Bailey, London 1674 to 1834.  URL は、http://www.oldbaileyonline.org/  以下の引用では、データベースのテクストに収録されていない部分を参照する必要のないかぎり、このデータベースの参照番号を記す。


4)栗田和典「国王恩赦嘆願状の可能性を読む——社会的な役割、ミクロ・ストーリア、
そして相互参照性」『ことばと文化』5号 (2002年)、pp. 1-24.

5)『ニューゲイト死刑囚小伝』については、入谷亜希子「18世紀イングランドの犯罪者把握における教育・人間観—— 『ニューゲイト・カレンダー』にみられる教育・処罰記述を手がかりに」『日本の教育史学』46集(2003年); Nick Groom, Introduction, The Bloody Register, i (London, 1764, repr., 1999) などを参照。


6)http://www.oldbaileyonline.org/facsimiles/1670s/16740429007.html


7)e.g. 1676年1月は、http://www.oldbaileyonline.org/html_sessions/T16760114.htmlhttp://www.oldbaileyonline.org/html_sessions/T16760117.html の2版が現存する。


8)http://www.oldbaileyonline.org/proceedings/publishinghistory.html (Publishing history of the Proceedings).


9)N. Groom, Introduction, xiii-xiv; John Beattie, Policing and Punishment in London, 1660-1750: Urban Crime and the Limits of Terror (Oxford: Oxford University Press, 2001), pp. 2-3.  『裁判録』はオールド・ベイリの裁判の詳細かつ網羅的で、かつ公刊された唯一の記録として、現代の研究者からも信頼をうける。J. H. Langbein, The criminal trial before the lawyers, University of Chicago Law Review, 45 (1978), pp. 263-316; do., Shaping the eighteenth-century criminal trial: A view from the Ryder sources, University of Chicago Law Review, 50 (1983), pp. 1-36.


10)Paul Lorrain, The CASE of Paul Lorrain, Ordinary of Newgate, Most humbly offer'd to the Honourable House of Commons (1712).


11)The Ordinary of Newgate his Account, 2 May 1707.  Cf. ibid., 21 June 1704, 22 Sept. 1704, 25 Oct. 1704, 4 May 1705, 27 Oct. 1708.


12)P. Linebaugh, The Ordinary of Newgate and his Accounts, in James Cockburn (ed.), Crime in England 1550-1800 (Princeton, 1977), pp. 260-268.  Peter Earle, A City Full of People: Men and Women of London 1650-1750 (London, 1994), pp. 19-54 も参照。


13)The Ordinary of Newgate and his Account, 21 Sept. 1716.


14)The Proceedings of the Old Bailey. refs: f17160906-1, t17160906-2, s17160906-6.


15)The Ordinary of Newgate and his Account, 21 Sept. 1716.


16)栗田和典「死刑囚の伝記」。


17)The Bloody Register, ii (1764, repr. 1999), pp. 8-11.


18)以下は、The Proceedings of the Old Bailey, ref: t17160906-2 による。


19)一般に、重犯罪の裁判であっても平均所要時間は1件あたり30分ほどであった。John Beattie, Crime and the Courts in England 1660-1800 (Oxford: Oxford University Press, 1986), pp. 376-8. あるいは、1716年9月開廷期の裁判では、本文で記したとおり、4日間で79件の審理があったので、単純に平均して1日に約20件、1時間に2件ほどが 処理された計算になる。


20)The Proceedings of the Old Bailey, ref: t17160906-1.


21)Anon., The Secret History of the Rebels in Newgate. Giving an Account of their Daily Behaviour, from their Commitment to their Goal-Delivery... (London, 1717), pp. 14-15, 25.


22)R. B. Pugh, Newgate between two fires, Guildhall Studies in London History, iii, 3 (1978), pp. 146-7.  Cf. Margaret Sankey, Jacobite Prisoners of the 1715 Rebellion: Preventing and Punishing Insurrection in Early Hanoverian Britain (Aldershot: Ashgate, 2005), esp. pp. 17-39.


23)Nicholas Rogers, Popular protest in early Hanoverian London, Past & Present, 79 (1978), pp. 79-83; 近藤和彦「モッブと騒擾法(1715年)」『三田学会雑誌』86巻3号(1993年)、pp. 46, 51.


24)N. Rogers, Popular protest in early Hanoverian London, note 48 at p. 82.


25)Ibid., pp. 81-2.


26)The Proceedings of the Old Bailey, ref: t17160906-1.


27)John Doran, London in the Jacobite Times (London, 1877), p. 265.


28)The Proceedings of the Old Bailey, ref: t17161010-1.


29)Anon., A Compleat COLLECTION of Remarkable TRYALS, of the most Notorious MALEFACTORS, at the Sessions-House in the Old-Bailey, from the Year 1706, to the last Sessions, 1720, iv (London, 1721), pp. 35-37.


30)N. Rogers, Popular protest in early Hanoverian London, p. 82.


31)The Proceedings of the Old Bailey, ref: t17161010-2.


32)Douglas Hay, Property, authority and the criminal law, in D. Hay et al., Albion's Fatal Tree: Crime and Society in Eighteenth-Century England (London, 1975), pp. 26-27.


33)The Ordinary of Newgate and his Account, 19 Sept. 1716.


34)The Proceedings of the Old Bailey, ref: t17100418-48.  恩赦嘆願状は、National Archives, SP 34/29/68D, fol. 168.

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