国王恩赦嘆願状の可能性を読む ——社会的な役割、ミクロ・ストーリア、そして相互参照性——

人はなぜ死をおそれるのか。死を忌避する態度は、歴史的にみて、いつごろに登場してきたのであろうか。死生観の変化を手がかりに近代の質を考えるという研究は、すでにアリエスという、視野のひろい先駆者をもっている(1)

わたしは、「死を前にしてのことば(last dying speech)」への関心から、国王ジョージ1世の暗殺を計画したが未遂におわり、大逆罪で処刑された徒弟の、かたくなな死について考えたことがあった(2)。 刑死は、もちろん自然死ではないし、事故死でもない。死をむかえる瞬間があらかじめわかっている。18世紀イングランドのばあいでいえば、いくつかの場面 の公開性がきわめて高く、死刑囚本人にとどまらず、周囲の人びとの死にたいする態度も、しばしば浮かびあがってくる素材である(3)

2000年の夏、学外研修の機会をあたえられて、わたしは連合王国のロンドンに滞在した。期間の前半を セント・パンクラスのイギリス図書館(British Library)へ、後半はキューの公文書館(Public Record Office at Kew)にかよい、館員に質問・相談し、電子媒体、組み版印刷、タイプライタ印刷のカタログを検索しながら、史料の海でおぼれてきた。2ヶ月というみじか い期間であり、当然のことながら、最初から史料のねらいはつけてあった。そのかなりの部分を占めたのが、恩赦嘆願状である。これは、有罪評決をいいわたさ れた者が、処刑執行までの待機期間中に、国王をはじめとする統治のエリートにあてて書きおくった手紙である。その目的の一つは、刑またはその執行の軽減 (conditional / conditioned pardon)、執行猶予(reprieve / respite)、保護(protection)など、生きのびる希望をうったえることにあった。

以下の小論では、これまでに判読できた恩赦嘆願状——おおよそ1702〜1714年にだされたもの—— の一部を紹介しながら、18世紀イングランドという文脈のなかでそれを読み解いてゆくための、手がかりと留意すべき点を考えておきたい。刑死にたいする人 びとの観念というテーマはこの材料から可能であろうか。念のために付言しておけば、これは研修成果のひとまずの報告であるので、バランスのとれた動向紹介 になっていない。思うところを記して批判をあおぐためのノート、とおとりいただければさいわいである。

1. 恩赦嘆願の社会的な役割——利害のゲームか——

恩赦とは耳慣れないことばかもしれない。現代の日本では、大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除、復権からなり、内閣が決 定し天皇が認証する国事行為である(日本国憲法第7条の6,および第73条の7)。効力、および中央更生保護審査会の申し出などの手続きは、恩赦法(昭和 22年法律第20号)にさだめられ、1947年から施行された。恩赦の実施が検討されるのは、天皇家に慶弔事のあったおりが多く、たとえば、1993年6 月に徳仁親王の婚姻が挙行されたさいは、復権をのぞく、恩赦がおこなわれた。

こうした近代的な恩赦制度は明治期から、治罪法(1880年)、帝国憲法(1889年)、刑事訴訟法(1890 年)、恩赦令(1912年)の制定によってととのえられた。だが、統治者の特別の恩寵によって罪をゆるすという意味での「赦」なら、そのはるか以前、中国 から律令法が受容された奈良朝からすでに存在していた。平安時代まで天皇の大権であったが、鎌倉期以降は幕府も発するようになり、室町期には将軍が専権的 におこなうようになった。江戸時代について平松義郎の説明にしたがうと、赦は「幕府や朝廷の慶弔に際して将軍が令した」ものであり、吉事における「祝儀の 赦」と追善供養のためになされる「法事の赦」があった。一定年限の刑期が経過し、改悛のいちじるしいことが条件であり、犯罪者の改善の奨励を主眼とした。 また、「既決の者」をゆるす「過去の赦」は、刑期のさだめのない遠島や追放の刑の長さをきめることになり、その結果として「厳格すぎる刑を緩和し、誤判を 修正するなど」の機能をはたした(4)

ここにはすでに、恩赦の機能をめぐる論点があきらかである。つまり、一つは、恩赦が「統治者の特別の恩 寵」によると理解される点を強調して、その授受が社会的な秩序の維持にはたす機能、恩顧と恭順をおもくみる。18世紀イングランドについては、あとでふれ るダグラス・ヘイの研究が先駆的で、かつ代表的であろう。他方、もう一つの議論は、極刑規定法やそれにもとづく過重な判決が行刑において緩和されたことか ら、司法のもつ中立性を評価する。この両者は、恩赦が付与される基準をめぐって議論をたたかわせてきた。ヘイの提言に実証的な法制史・地域史の研究者たち がどのように答えたかを軸にして、恩赦の研究史をまとめてみたい。

18世紀イングランドの恩赦を手続きの面からみれば、おおよそ、つぎのようになる(5)。 重罪をおかした者がさばかれたのは、首都ロンドンのオールド・ベイリ(年に約8回)と、各州の巡回法廷であった。巡回法廷は、ウェストミンスタの高等法院 判事が国王から裁判権を委託され、各法廷管区内のさだめられた都市で年に2度、開催したものであり、刑事犯の裁決(oyer and terminer)と未決囚釈放(gaol delivery)をおこなった。食糧蜂起や叛乱のさいには、特別巡回法廷(special commission)が開催されることもあった(6)。 各都市における裁判の終了直後に執行猶予がいいわたされ、恩赦名簿に名前が記入された。ここに記載されなかった有罪囚の恩赦嘆願は、陪審や証言者などが中 心になって開始され、巡回法廷判事に託した。判事はロンドンにもどったあとにこれを審査し、かれの判断をしるした報告書を嘆願状の現物にそえて国王へ提出 した。こののち、国王が減刑や執行猶予を裁可した。したがって、恩赦嘆願と恩赦は、1年のうちの一定の期間に集中することになった。

D・ヘイが注目したのは、18世紀の刑事裁判全般にみとめられ、とくに、有産者の男に留保されていた裁 量権であった。たとえば、それは性格証言者の役割にあらわれた。「わたしはいま、まさにおそろしい裁判にむかうところでございます。あわれなわたしのいの ちが危殆に瀕しておりますのは、神の知るところでございます」と、ウィリアム・シェフィルドという名の労働者は、法廷が開催される1ヶ月前に、かつての雇 い主たちにあてて手紙を書いた。

「それゆえにこのたび、みなさまがたにわたしの味方としておこしいただき、あなたがた と暮らしておりましたころの性格証言をしていただきたいのです。味方になっていただければ、これを命じた判事も、わたしにとっておおいに有利とみなすこと になるでしょう……。親愛なる雇い主さま、どうか後生ですから、このたびのわたしの不幸な状態をお考えください。味方してくださいませ……。」(7)

シェフィルドは雇い主たちの証言をえられず、結果的に有罪となった。しかし、相当の社会的なステイタスの者が証言をする ことは、判事に恩赦を考慮させる第一歩となった。判事のもつ裁量権もまた大であり、恩赦に推挙される者と絞首刑に処される者を線びきできた。しかし、かれ らは「尊敬にあたいする(respectable)一団の人びとの感情を害する意図はなく」、基本的にローカルなジェントリの要求をいれた。他方でまたそ れを、慈悲をしめすためにも利用して、民衆の正義感を宥和し、既存の体制への支持を調達するための一策とした(8)

ヘイは、18世紀イングランドの社会関係のなかで恩赦の授受がもつ、三つの重要性をあげる。階級の主張(the claims of class)、恩恵の授与〔官職推挙〕の関係を往き来する通貨の一部(part of the currency of patronage)、慈悲のイデオロギー(the ideology of mercy)、である。たとえば、両親が「尊敬にあたいする」、兄弟が「性格もよく地位も高い」、一族が「非常に名声の高い」といううったえは、「人道の 主張よりもはるかに多くのいのちをすくった」。「貧困と困窮」は一般的な弁解事由ではあっても、あまりおもみをもたなかった。かくして恩赦は、尊敬にあた いする階層の違法行為者たちを死刑からすくったのであるが、それは、恩赦嘆願が、恩恵の授与とその対価となる義務によってむすびついた男たちのあいだをわ たされてゆくことにより、保証された。「死刑囚が典獄と牧師にうったえ、その牧師がロンドンで要職にあった聖職者に手紙を書き、その聖職者が庶民院議員に うったえ、庶民院議員が内務大臣にその件を考慮するように依頼」(9)す るといったように、長い鎖状につらなった利害関係と人脈をたどったのである。ただし、恩赦の取引は、貧民の目から隠蔽されていた。一般民衆のレヴェルで表 象された恩赦とは、神秘的にして神聖、上品な寛容の行為であり、その決定は国王大権にもとづいて絶対的であった。だがそのじつは、「いったん貧民が充分な 懲罰をうけて所有権が保護されたならば、『自分の』人びとを保護することがジェントルマンの義務となり、それは統治階級のおこなう自己正当化として重要で あった」(10)にすぎない。恩赦は、刑法の極刑規定、司法の裁量権と融通無碍にくみあわされて、国家権力による統治の繊細な調整を可能にしたのである(11)

およそ10年前に、犯罪の社会史研究の動向紹介を書いたとき、基本的にわたしはヘイの立場を支持した。 ヘイの提言は「どうやって検証するのかが疑問に思われる」箇所もあるが、結局のところ、18世紀イングランドの統治階級は——あきらかに同義反復であるが ——統治しつづけたのであり、一見してかれらのやり方が否定されるように思われても、最終的には統治のヘゲモニーを強化するために、ほかの階層の主張をと りこむような「戦略的な譲歩」をおこなったと解釈すればよい、と(12)。 しかし現在は、ヘイにたいしてやや批判的なかまえでいる。じっさいにみた恩赦関係の文書は、その不均一性、一つ一つの事例のもつ個別性がいちじるしかっ た。それゆえ、特定の事例を一般化するような印象論は危険である。ヘイの提言が印象論にすぎないというのではない。恩赦もその一部である/一部にすぎない かれの解釈を研究のはじめに読んでしまったわたしは、べつの可能性を考察して自己を相対化しなければならない、ということである。

さて、流刑法の制定(1718年)からアメリカ独立革命の開始まで、北アメリカ植民地へおくられた流刑 囚を分析した『行き先はアメリカ』において、A・ロゥジャ・イカーチは、恩赦の手続きが「腐敗や特定の利害集団の主張をみとめやすい」とする。じっさいの 流刑囚は単一の社会階層でなかったとはいえ、裕福な家柄の出身者はごく少数であり、大半は職業からみれば下層民衆であった(13)。なるほどこれは、強制された年季奉公移民、イングランド社会の下方にかたよった断面図であり(14)、司法の階級性のあらわれかもしれない。しかし逆に、「階級の主張」では恩赦がうけられなかった結果ともとれよう。

結論からいえば、富裕な権力者たちの影響力は公共生活全体に浸透していたけれど、司法当局が王権に恩赦の該当者を推薦することへはさほど効果をもたなかった、とイカーチは主張する。たとえば、ロンドン(シティ)の記録裁判官であったウィリアム・トムスン(William Thomson / Thompson, 1678-1739, 庶民院議員や財務府法廷判事を歴任)は、1726年、強力な縁故関係を利用して減刑を申したてる違法行為者にも特別な配慮はあたえない、と宣明した(15)

かわって、「階級の主張」以上におもみがあったとされるのは、共同体の世論と判事の報告書である。陪審は評決をおえたあとでさえ、有罪囚が同情の対象となる者であれば、判事をうながして赦免に推薦した(16)。恩赦嘆願の組織や判事へのうったえは共同体のリーダが率先した事例も多く、そうしたリーダは陪審とほぼおなじ社会階層に属していたことを銘記しておきたい(17)。 もっとも大きな同情、支持をひきつけたのは、「脅威になることがきわめてすくないと思われる重罪者」であり、たとえば、「以前から立派なふるまい」をみと められ、「ふたたび隣人のなかで暮らせる」とみなされた人物である。反対に、復讐をほのめかして脅迫するような輩には、地域住民からの支持がなかった。判 事は、もちろん、「貧困と困窮」などの軽減事由を検討したが、しかし、それとほぼおなじほど、恩赦後の就業の展望を重視した。親方・自営業者が、たとえ ば、死刑囚を徒弟として雇用すると約束していれば、判事は確信をもって、「矯正にむけて流刑よりも効果的な手段」であると報告書にしるした(18)。これをたった一人の雇い主の英雄的/博愛的な申し出とみなすのはむずかしい。その背後に、雇い主の属する共同体の諒解があったのではないか。

たしかにヘイも、雇い主の証言を判事が重視したことに言及している。だが、おなじ「尊敬にあたいする」 という形容詞をつかっても、どちらかといえば、「〔ケインブリジ〕大学のジェントルマン」、「マカートニ卿」、「貴族ヒンチンブルク子爵」などのになう役 割が決定的であるように論じる(19)。 ヘイがイメージしているのは、庶民院議員選挙の有権者で小陪審の候補者となる中間階層というより、庶民院議員に立候補し、治安判事に任命され、大陪審に なった名望家層であろう。イカーチは、恩赦にさいして重視される証言者の階層を、かなり低いところまでひろげたわけである。

いかなる違法行為者が、どのような刑をうけたのか。犯罪の発生から、起訴・告訴、巡回法廷や四季法廷での審理、評決・判決、そして処刑の瞬間まで、さまざまな場面で裁量権が行使され、内済措置がとられる余地が存在した(20)。 刑を執行されたのは、いわば選りぬかれた者たちであった。こうした過程について、地域を限定し史料を徹底的に渉猟した成果として、いずれもロンドン近郊で あるが、サリ・サセクス両州をあつかったジョン・M・ビーティ、エセクス州をとりあげたピータ・キングの仕事がよく知られている(21)

両者の著作の論点は多岐にわたるが、ここでは恩赦に関連する点のみを指摘してゆく。J・ビーティは、女 の違法行為者に注目した部分で、法廷が「犯罪と犯罪者が刑罰にふさわしいかたちになるべく、被告人をあるさだまったやり方で選択」していたとのべている。 被告人を同定することが、有・無罪という争点とならんで重視され、性別、年齢、被告人の性格および評判、常習犯か初犯者か、処罰の効果と有益性が問われ た。じっさいの裁判において1件あたりのやりとりの時間はみじかく、そのあいだに聴取される内容はかぎられていた。そのわずかな時間に、判事や陪審が、被 告人の性格、生活習慣、評判に留意していたことは、やはり注目にあたいする(22)

この議論をキングも継承する。かれは、1787年と1790年をサンプルにとり、判事報告書にあらわれた計136件(うち97件が嘆願状をともなう)の恩赦嘆願について、その可否に影響をあたえた要因を分類した。結果は表1の ようになるが、かならずしも、有力者の性格証言、階級の主張にあたるものが優位ではない。ついでかれは、複数の要因の相乗/相殺効果について、報告書と嘆 願状をていねいに読み解いてゆく。重要な論点として、被告人の若さは単独でも引用されるが、誘惑や不本意ながらの協力、矯正や雇用の可能性と関連づけられ るといっそう有利になったこと、困窮には共同体からの支持が大きく(おそらく貧民対策)、たいして判事はやや懐疑的であったこと、困窮・貧困をうったえら れなかったばあいは、とくに厳罰に処されたこと、「尊敬にあたいする」という修飾語がかなり下方の階層にまでひろげてもちいられていたこと、性格証言でも とめられたのは、被疑者の社会的なステイタスではなく、良好な隣人関係のなかでの信用であったこと、などがあきらかになる。また、判事は基本的に、貧弱な 証拠にもとづいた有罪評決が多すぎるという感覚をもっており、無罪の可能性をみとめるのにやぶさかではなく、逆に再犯者、暴力行為をともなう犯罪、逮捕へ の抵抗などがあきらかであれば、ためらいなく被告人に不利な裁定をくだした(23)

恩赦嘆願の支援者をあきらかにするのは、きわめてむずかしい。嘆願状や添付された手紙などに、書き手・ 署名者の社会的なステイタスや職業の記載がほとんどないからである。したがって、そもそも「長い鎖状につらなった利害関係と人脈」をたどってゆける事例 は、きわめて少数である。それでも、可能なかぎりの関与者を照合したキングによれば、中間階層がもっとも積極的に関与し、かれらの恩赦(完全と条件付きの 両方)成功率は貴族・ジェントリとおなじ高さであった。これは逆に、貴族・ジェントリの援助があれば自動的に恩赦がおりたのではなかったことの証明になる(24)

おそらく、大貴族や全国政治の大立て者が関与した少数の事例は、ヘイのいうような「階級の主張」論があ てはまったであろう。しかし、そのほかのばあいは「人道の主張」もしりぞけられず、個別具体的な事情をみて判定されたのではないか。違法行為者の性別、年 齢、貧困、暴力行為の有無、矯正の可能性、性格・評判、無実の可能性などがその材料であった。

恩赦の役割をめぐる議論は、およそ上記のような地点に達した。この議論と死生観との関連を指摘しておき たい。ビーティやキングの析出した基準は、およそ判事、陪審、共同体に共有されていた。しかし、判事と共同体では対立する点が一つあったと思われる。ある 地域で特定の違法行為が顕著であったとき、見せしめとして犯罪者の処刑がおこなわれる可能性があった。判事はこれをみずからの権力のうちに留保しつづけた のにたいして(25)、共同体は処刑に相当しない者に科されることを問題なしとしなかった。処刑場での騒動がこの対立の証拠ともいえよう(26)。共同体、民衆の側に力点をおいていうなら、違法行為がはたして極刑に妥当するほどに悪辣なのかが問題であった。抑止のための死(刑)は、忌避されたのである。

2. 恩赦嘆願の物語——ミクロとマクロ——

19世紀前半を中心として、内務省関係文書のなかに大量にのこされた恩赦嘆願状を分析したV・A・C・ギャトレルは、その浩瀚な著作『絞首台』をささえた「洞察が、キューアトンの物語を発見したことでうまれたのは」「偶然ではない」、としるしている(27)。 かれが発見した物語とは、1829年6月、シュロプシャ州コウルブルクデイルに住んでいたエリザベス・キューアトン(Elizabeth Cureton)という24歳の女が、かつての婚約者ジョン・ノーデン(John Noden)によって、かの女の自宅で強姦されたことを発端にして、告訴、裁判、2度にわたる恩赦嘆願に展開していった事件をさす。序論、6部21章構成 の本論、エピローグからなる計656頁の著作のうち、第17章がそのまま独立の第5部をなし、すべてこの強姦事件の分析にあてられている。

相対的に均質なデータを、分析者が設定した項目のフィルタにとおし、史料全体にくり返しあらわれるような要因を つきとめる、そうした方法がとれないとすれば、何が可能なのか。史料へのアクセスにかぎりのある外国史研究者に、ギャトレルは貴重なヒントとなるはずであ る。一般に、法廷記録に依拠する利点は、裁判というものが、そうでなければ存在すらもとらえられないような人びとについて、豊富に記録をのこしてくれる瞬 間となることである(28)。 さらに、この強姦事件にかぎっていえば、史料の量からみて「1820年代における最大の嘆願運動」であり、豊富な証言から主要な登場人物たちの共同体にお けるその後の運命をさだめたやりとりや態度・ふるまい、法廷の判事にはみえなかった慣習や人びとの動機、利害、うめこまれた価値観や当然の前提があきらか にされてくるのである(29)

公判でのエリザベス・キューアトンの証言によれば、事件はつぎのようにしておこった。

「父と母は9時か10時に就寝しました。……わたしが上の階にゆくと、ドアのノックが 聞こえました。父と母が上の階にいってから30分ほどたっていました。自分の寝室の窓をあけて、そこにいるのはだれ、とたずねました。被告人が、ぼくだ、 と答えました。……わたしは階下にいって服を着ました。ドアをあけました。被告人は、いっしょに散歩へいかないかといいました。かれは仕事着でしたが、そ れまで一度もその服できたことはありませんでした。わたしは散歩をことわりました。被告人は、父と母が就寝してからどれくらいたったか、とたずねました。 わたしは、それほどたってないわ、といいました。

すると、被告人は階段につうじるドアをしめ、わたしを客間へ押しやりました。つよくつかむと、ドッとほうり投げ ました。……後頭部をうって、気をうしないました。被告人は、生かすも殺すもといい、わたしは、じゃあ、死んでやる、といって叫び声をあげました。かれ は、自分の腕をわたしの口にかぶせました。

被告人はそれから無理やりに、わたしの意志に反して、服をめくりあげ、わたしの身体のなかにかれの秘部 をいれました。かれはズボンを家にはいってくる以前に脱いでいました。邪魔がはいらなかったからです。上着を脱ぐ時間や機会はありませんでした。部屋には いってくるときに脱いだにちがいありません。わたしは、被告人がどれくらいのあいだ、上にいたのかわかりません。15分か20分ほどだったと思います。

わたしは叫び声をあげ、できるかぎりさわぎたてました。……被告人はわたしに、生かすも殺すもといいま した。わたしの身体にはいり、そして立ちあがってでてゆきました。母がわたしの叫び声を聞いて階下におりてきました。父はかなり耳が遠いのです。……母が 階下におりてくると、被告人はドアから外へ走りだしてゆきました。わたしは母におこったことすべてを話しました。」(30)

この証言には奇妙な点がいくつかある。元婚約者とはいえ、なぜ、夜中に家のドアをあけたのか。ノーデンはいつ衣服を脱 いでいたのか。母の登場するタイミングが絶妙すぎないか。なるほど、このテクストは相互尋問における口頭の証言を書きとったものであるから、矛盾やいいま ちがいがあって当然なのかもしれない。しかし、気になる点はこれ以外にも多い。

たとえば、かの女は事件のあと10日間にわたってねこんでしまい、隣人の外科医エドワード・エドワーヅ (Edward Edwards)の診断をうけなかった。しかも、最初の往診のさい、性器の診察を拒絶した。治安官に裁判の証拠として必要であるとうながされ、ようやく診 察におうじたのである。さらに、エリザベスは精一杯の物音をたてたというが、壁一枚をへだてた隣家の住人デイヴィド・ウィリアムズ(David Williams)の証言によれば、「物音も叫び声もまったくきこえなかった」という。キューアトン家は当時、コウルブルクデイルのティーケトル・ロウと いう連棟家屋に、ほかの10家族と住んでいたが(31)、ダービ家の製鉄業共同体を土台とする緊密な隣人関係がここではあやうくなっていたのだろうか。また両親は、ノーデンが謝意をあらわし、エリザベスと結婚するというかたちでことをおさめようとした形跡をのこしていた。

犯罪訴追者=エリザベス側の評判・性格にあやしい点があったとはいえ、ノーデンが性交におよんだことは 事実であり、また、逮捕にあたった治安官にたいし、「おれにとって不利なことを、かの女ができるかぎりで証明すれば、絞首刑になるのははっきりしている」 と語っていたなど、有力な証拠もあった。陪審の評決も有罪であり、ただし、赦免への推薦がつけくわえられた。担当の巡回法廷判事サ・ジョン・ヴォーン (Sir John Vaughan, 1769-1839)は、なぜか閉廷時に執行猶予としなかったが(32)、外科医エドワーヅとの内密の会談をもったあと、それをみとめた。

外科医エドワーヅはこのあと、2度にわたる恩赦嘆願の中心になった人物である。かれはコウルブルクデイ ルの成功者であり、法廷においてその知識が重視されるべき専門職でありながら、結果的に証言が無視されたという思いもあった。公判終了から1週間で、8名 の男が治安判事にエリザベスとの性体験を宣誓証言し、ダービ家の人びと、この地方の外科医全員、教区牧師、鉄工場主、ジェントルマン数名、公判での陪審 員、農業経営者、旅亭経営者、会計係、靴工、食料品業者、肉屋、学校教師、そして女たち、あわせて192名が、「つねに害になることなく、モラルにしたが い、まじめで誠実、勤勉な男としてふるまい、両親にたいしてやさしく、義務を遂行し、いかなる点でも指弾されることのない性格を維持してきた」「ジョン・ ノーデンは、問われた犯罪において有罪でない」という、恩赦嘆願に署名した。この嘆願はヴォーン判事に受理され、結果としてノーデンは減刑されて流刑に なった。しかし、できごとの連鎖はここでおわらず、完全な国王恩赦(free pardon)をもとめて、2度目の嘆願がおこなわれ、ダービ家の人びとをはじめとする358名が署名をした。さらに、エドワーヅじしんがエリザベスの早 産の処置や性病治療などのあらたな証言を展開した。この系で、かつての恋人4名が証言によばれ、かの女の処女膜がこの事件のかなり以前にやぶれていたと か、5人の相手がいたとか、性交渉のときには「自分の手でペティコートをめくりあげた」とか、エリザベスの性にかんする評判はズタズタにされたのであっ た。

ミクロ・ストーリアの代表としてあげられるのは、ギンズブルグのメノッキオであり、N・Z・デイヴィスのマルタン・ゲールや「辺境=欄外の女たち」である(33)。 一方、ノーデンは1829年に裁判にかけられた18,974名の重罪犯の1名にすぎない。しかし、このできごとからはいくつかの論点が照らしだされると、 わたしは思う。思いつくままにいえば、一人の女の性行動、セクシュアリティの事例としてまずおもしろい。エリザベスは共同体の家父長主義的な価値観を侵犯 した女であったのか。あるいは、どの時点で共同体の寛容のしきいをこえてしまったのか。その女をかなり幼いころから知っていた、知的な専門職たる外科医エ ドワーヅの行動も、小説の題材になるかのようである。犯罪の社会史の関連でいえば、ダービ家の人びとはクエイカ教徒として知られており(34)、 そのクエイカ教徒たちはエリザベス・フライ(Elizabeth Fry, 1780-1845)に代表されるように、刑法や監獄の改革をもとめる博愛的な運動にかかわっていた。しかし、この事件にかんするかぎり、その信仰のつな がり、進歩主義的な色彩はみえない。むしろ、公判や2度の恩赦嘆願で目立ったのは、犯罪訴追者個人の性格をおとしめる戦略であった。すなわち、被告人ノー デンの弁護にまわった人びとの動機が、極刑そのものや極刑規定法、司法と刑罰のシステム全体にたいする嫌悪というより、かなり個別具体的で、しかも害意あ る訴追のために有罪とされ受刑することへの憤慨であったと思わせる。1830,40年代の司法改革がはじまる直前のこの事件は、改革の原動力としてこれま でいわれてきた福音主義、博愛主義を相対化させる。

イングランドの事例分析ではないが、比較をあるていど念頭において、しかも、恩赦嘆願状の内容や作成の過程そのものをも分析の対象としたのが、N・Z・デイヴィス『文書のなかのフィクション』である(35)。わたしはいまだに一知半解とはいえ、歴史的な叙述の問題や「社会史の言語論的な展開(linguistic turn of the social history)」、あるいは読書の社会史をめぐるやの議論とあわせると(36)、 史料の読みかたとして、16世紀フランスの国家と社会論として興味ぶかい。訳書の表紙カヴァーには、公開処刑の土壇場で恩赦が付与されたサン=ヴァリエ殿 (1524年)の絵があり、「恩赦状を一語一語読み上げた」というキャプションがはいっているが、内容について誤解をまねく。たしかに、そうした演劇的な 効果を分析する部分もあるが、副題にもあるように、要点は嘆願状の作成過程にもある。

恩赦は国王大権であるから、まず王のさだめたルールにしたがわねばならない。とはいえ、これはエリート の公式の文化が死刑囚の語りを拘束するというだけの構図ではなかった。死刑囚は公証人や法律関係者から知恵と筆を借り、定型的で説得力のあるレトリックを つくりあげていった。説得的である以上、言説はエリートと民衆のあいだに共有されているが、しかし、おなじ「逆上」を説明するにしても、「マグダラのマリ アの祝日に好色な妻を殺害した」であったり、カーニヴァルの酔いのさなかの暴力行為がつかわれたりする(37)。うけとめたエリートの側も・究極のうそ・かもしれぬことを承知で納得したのであろう。これは、エリートと民衆文化の対抗局面ではなく、階級や文化のちがいをこえた、したたかな交渉の局面である。

デイヴィスが分析した恩赦の物語を18世紀前半のイングランドで研究することができるか。じつは史料の点で、ギャトレルはこれに否定的であった。かれの著作の附録には嘆願文書についての注記があり、「18世紀の事件調査書類は多くの素材の遺漏がある」としている(38)。しかし、かぎられた量であるがゆえに、逆に外国史の研究者には可能性がひらけるともいえる。あとは、ともかくまっすぐに現場にわけいって、史料とたわむれるしかない。

3. 恩赦嘆願を読む——文書の相互参照——

18世紀前半の恩赦嘆願状は国務文書(state papers)であり、公文書館の分類SPシリーズの34,35,36におさめられている。すでに2節でふれたように、これは国王宛ての個人的な手紙のかたちをとったが、複数の手のはいった公開性の高い文書であった(39)。19世紀前半の内務省文書であるHOシリーズの17,18のように、すべてが恩赦嘆願でしめられるような量にはまったくおよばないが、10や20といった数ではない(40)。いくつかの可能性を考えながら、わたしは、ロンドンのニューゲイト監獄に収監中の死刑囚がだしたと思われる恩赦嘆願状を、集中的に収集した。

さて、嘆願状とはどのような文書なのか。図1(省略)に嘆願状1通の部分的なコピーをかかげた。図2は封書の裏 書きである。内容をすべてわかるところまではしめせないが、形式や文字の特徴は読みとれるであろう。全体を翻刻すれば、つぎのようになる(いわゆる「マ マ」=sic は煩雑なので特記しない)。

To the Queen's most Excellt. Majtie

The humble Petition of Margarett Green, now under Sentence of death in Newgate

Sheweth

That yor. Petrs. husband being in yor. Majties Service at Gibraltar, and leaving her with 4 poore children under very pressing wants, Shee had the misfortune to be brought into this calamity by the Seducement of ill people being apprehended in the attempt of Felony for which shee has justly received Sentence of death; But forasmuch may it please yor. Majtie., as this is the first Fact, shee was ever guilty of, and being sincere in her repentance for the same, and resolving, might shee obtain yor. Majties. mercy to avoid all such Company and evil courses for the future.

Shee most humbly implores yor. Sacred Majtie. to take Compassion of her and to Extend yor. Mercy to her, by Reprieving her from Death, which is rendred a thousand times more terrible, by leaving her inocent Babes, Friendless & Expos'd to the wide and merciless world.

And as in Duty bound shee shall ever Pray &c.(41)

じつに簡潔にして機能的な手紙である。最初に国王——このばあいはアン女王——のあて名がうやうやしく書かれたあと、請 願者の氏名と現状がくる。第3段落は相対的に長く、恩赦を嘆願する事由がのべられる。第4段落はもとめる処置の具体的な内容、そして最後に定型句の結語が くる。遊びや物語性を感じさせるものは、ほとんどない。このマーガレト・グリーンという女のばあい、夫が軍隊に徴発されて海外勤務(ジブラルタル)となっ たために、4人の子どもをかかえて困窮にあえいでいたこと、悪い仲間に誘われたこと、初犯であること、二度とそうした仲間とつきあわず、将来の道をあやま らないと決意していることが、嘆願事由を構成した。また、死刑の執行猶予をもとめた第4段落でも、子どもの養育について言及されている。嘆願者が女である ためもあるが、「マグダラのマリアの祝日に」などという文言のはいる余地はない。

たった1通では、どのように分析したらよいか、まったく想像もつかない。2節でふれたキングにならい、表1の分類とほぼおなじ項目で恩赦嘆願状を数えたのが、表2である。総数56通のうち、恩赦嘆願の事由は「若さ」にふれているものがもっとも多く、しかも、ほぼ例外なく、「犯行以前の善良な性格」や初犯(first fact)であること、仲間からの教唆・誘惑、矯正の可能性(42)な ど、複数の事由とともにうったえられていた。若さは相対的であるが、実年齢の範囲は18歳から30歳まで、20歳代前半がとくに多い。「そのほか」は、正 当防衛、同一犯罪にたいする2度目の訴追による有罪、すでに10ヶ月にわたって監獄に拘禁、法律の改変の結果による意図せざる不法入国、すでに恩赦をうけ た共犯者とのバランス、などである(43)。 性別にかんしては、うったえる内容にそれほどの差異があるわけではないが、妊娠を理由に執行猶予をみとめられ、その後に恩赦を嘆願するというパターンは女 にのみ可能であった。逆に、犯行以前に忠良な兵士であったという申したては男のものであり、軍隊との関連で女がいえるのは、上記のグリーンのように、夫が 徴発されたゆえの困窮であった。

表1表2をそのまま比較すれば、あやまりにみちびかれやすい。何よりも、表2は判事の報告書を参照していないので成功率が不明であり、また、18世紀はじめ、ほかの都市を圧倒する約60万人もの人口を有した首都ロンドンの刑事犯監獄としては、件数がすくなすぎる。ただし、表1表2に共通して、本人もしくは両親が尊敬にあたいする階層の者であったと申したてたり、性格証言者として雇い主や親方が登場したりする嘆願状はすくない(44)。やはり、ヘイの「階級の主張」論は考えにくい。

ここであつかった56通の恩赦嘆願状のほとんどに、嘆願者本人の署名がない。大陪審による嘆願状などは末尾に10名をこえる署名があるが(45)、単独の嘆願のばあい、頭文字や「レ」記号すらないことがある。なぜであろうか。

おそらくこの答えは、本人が書いたものではないから、であろう。図1,2をみていただければわかるように、この字体は独特のくずし方をしているが、うつくしくととのっている。わたしは古書体学について専門的な訓練をうけていないので、公文書館の簡単な手引きをはじめとするいくつかの書体ガイドから考えたり(46)、 ほかの研究者に個人的に相談したりするしかなかったが、おそらく、法律関係者、法律文書にたずさわった人びとの手による字体であると思われる。18世紀な かばのイングランドの識字率は、男が約60パーセント、女が40パーセント、18世紀前半のロンドンで商工業者の男が90パーセント、一般の女が60パー セントと推定されるが(47)、かりに最近の民衆文化研究がいうように、人口のかなりの部分が半識字の状態、つまり、読むことはできるが書くことはできないという状態にあったとすれば(48)、有罪囚たちは代書屋をやとい、かれがもっている嘆願状作成の経験をたよりにしながら、自分の立場とうったえが簡潔な文書にしたためられてゆくのを確認したのではないだろうか。文書フォーマットの存在は否定しないが(49)、しかし、それぞれの嘆願状にはそれぞれ個別具体的な事情、希望する赦免のレヴェルが書きこまれている(50)

史料の収集をニューゲイト監獄に収監された者からの恩赦嘆願状にしぼった理由について、今後の可能性と の関連でのべておきたい。上記のマーガレト・グリーンの恩赦嘆願は成功しなかったことが、かなりの確率でいえる。なぜなら、同姓同名の者がニューゲイト監 獄に収監され、1705年5月4日(金)にタイバン処刑場で絞首刑にされたことが、べつの史料によって推測されるからである。つまり、文書相互の参照 (intertextuality)が重要であると考えたがゆえに、史料を限定したのである(51)

べつの史料とは『牧師の談』とよばれ、端的にいえば、ニューゲイト監獄付きのイングランド国教会牧師(the Ordinary of Newgate)が死刑囚との対話をもとに作成した、犯罪者の伝記というべきものである(52)。 1705年5月4日の処刑をつたえる『牧師の談』には、4 月18日から20日にかけてオールド・ベイリでひらかれた裁判において6名が死刑を判決されたが、うち3名は執行を猶予され、のこり3名(すべて女)に処 刑が命じられたこと、牧師が説教をほどこしたこと、処刑当日までに罪を悔いあらためて世を去ったことなどとならんで、マーガレト・グリーンなる家屋不法侵 入強盗犯の生涯がしるされている(53)

「ウォシ(Wothy)」なる別名をもつグリーンの生涯は、恩赦嘆願状で確認できるものとはかなり異な る。年齢は29歳、北アイルランドの出身でダブリンにでて結婚、しかし、夫の浮気によって1年ほどですてられ、ロンドンへやってきた。そこで再婚した男 と、犯行時までですでに7年間、いっしょに暮らしていた。この男が故買屋をいとなむべつの女とともにマーガレトをそそのかし、単独の犯行にいたらしめた。 収監の当初に、夫やよこしまな仲間の「不実」にたいする不満、救済への絶望などから、「かたくななこころ」でいたマーガレトであったが、牧師の祈りによっ てやわらげられ、「神がかの女の、重いもの、軽いもの、すべての罪を慈悲ぶかくゆるしたもうことを懇願してい」た、という。恩赦嘆願状に「悪い仲間」が強 調されていた点を重視して、おそらく同一人物であろうと推測したのであるが、確証があるわけではない。文書相互の関連性の延長線上でいうなら、裁判史料、 すなわち、『オールド・ベイリ開廷文書』(54)との照合が必要になる。くりかえすが、恩赦嘆願状を読むといっても、それを単独で読んでも、自動的に何かをいえるわけではない。わたしの問題関心からいえば、死を前にした人の証言の一つとして、複数のレヴェルの史料によって相対化されねばならない。

恩赦嘆願から直接に死生観を考えることは不可能である。正確にいうなら、これまでの研究、嘆願行動と嘆願状、比 較・参照すべきそのほかの史料からうかびあがるのは、違法行為にたいしてどのような刑罰を科すべきかという問題に媒介された、(生と)死にたいする態度で あろう。判事の報告書、恩赦嘆願、さらには嘆願状への有力者の署名は、それぞれの犯罪・刑罰観、何が赦免され、何が赦免され(るべきで)ないのかという問 題とともに、生命のおもさをどう考えていたかも、しめしてくれるはずである。これは、いま現在の問題でもある(55)

また、生きのびるために赦免を獲得しようとしてもちいられるレトリックは、死刑囚と代書屋とがいっしょになって案出した・言い訳・である。恭順の下に、どのようなしたたかさがかくれていたかという問題は、権力と民衆との交渉のあり方に関連する(56)。あるいは、今回の材料としたSP34は、1702〜1714年という時期にかぎられた史料である。SP35,36をみると、たとえばジャコバイト叛乱(1715,1745年)、ウォルサム狩猟法の制定(1723年)(57)などの重要なできごとがふくまれる。時系列的な変化はもちろん、階層的にも多様な嘆願者を検討することが可能になろう。嘆願状のはこぶメッセージは、一見してパターン化しているが、工夫ひとつでじつにゆたかなひろがりをもちうる。読む者の力量がためされる史料なのである。

1)アリエスの「死を前にしての態度」は、工業化社会においてタブー視されるように なった死を、1000年以上にわたる長期的な死生観の変化のなかで相対化した研究である。フーコーの、健康の語る権力、ビオ・権力(bio- pouvoir)論もこれに関連する。フィリップ・アリエス『死と歴史——西欧中世から現代へ』(みすず書房、1983年)、15〜87頁;桑田禮彰・福 井憲彦・山本哲士(編)『ミシェル・フーコー 1926−1984』(新評論、1984年)。

2)栗田和典「徒弟シェパードの・死を前にしてのことば・」静岡県立大学国際関係学部(編)『ことば・文化・社会』(1999年)、203〜233頁。

3)ホゥガースの「怠惰な徒弟はタイバンで処刑される」(1747年)は、その好例であろう。この版画の分析は、Ronald Paulson, Hogarth's Graphic Works (London: The Print Room, 3rd and revised edition, 1989), 129-139; do., Hogarth, ii, High Art and Low, 1732-1750 (Cambridge: The Lutterworth Press, 1991), 289-322; 近藤和彦『民のモラル——近世イギリスの社会と文化』(山川出版社、1993年)、249〜258頁。

4)平松義郎『江戸の罪と罰』(平凡社、1988年)、とくに、79〜80頁。付言すれば、日本についても、助命嘆願の事例そのものはみつかるのであるが、しかし、18・19世紀のイングランドのような、なかば常態化した恩赦は確認できなかった。

5)以下で対象とするのは、重罪(felony)にかぎる。

6)巡回法廷について、何よりもまず、James S. Cockburn, A History of English Assizes, 1558-1714 (Cambridge: CUP, 1972, repr., 1986), を参照。オールド・ベイリほか首都の司法システムについて、John M. Beattie, London juries in the 1690s, in James S. Cockburn and Thomas A Green (eds.), Twelve Good Men and True: The Criminal Trial Jury in England, 1200-1800 (Princeton: Princeton University Press, 1988), 216-225.

7)Douglas Hay, Property, authority and the criminal law, in Douglas Hay et al., Albion's Fatal Tree: Crime and Society in Eighteenth-Century England (London: Allen Lane, 1975), 43, から重引。もとの史料は、William Sheffield to Evans, Hinds and Best, re his trial at Aylesbury, Lent 1787; Public Record Office(以下、PRO), HO 47/6.

8)D. Hay, Property, authority and the criminal law, 43-44.

9)Ibid., 46.

10)Ibid., 47.

11)Ibid., 44-50.

12)栗田和典「18世紀イギリス史の新展開——犯罪の社会史覚書き」『史学雑誌』99編9号(1990)、71〜72頁。Joanna Innes & John Styles, The crime wave: Recent writing on crime and criminal justice in eighteenth-century England, Journal of British Studies, xxv (1986), 406, も参照。

13)A Roger Ekirch, Bound for America: The Transportation of British Convicts to the Colonies 1718-1775 (Oxford: Clarendon Press, 1987), 53 and tab. 4. ただし、史料となる材料はとぼしく、この表4は2隻の船に乗船した、男の流刑囚98名の記録にもとづく。

14)川北稔『民衆の大英帝国——近世イギリス社会とアメリカ移民』(岩波書店、1990年)、95〜128頁。

15)A. R. Ekirch, Bound for America, 36-37. W. Thomson についての同時代人の評価は、Henry Fielding, An Inquiry into the Causes of the Late Increase of Robbers, & c. (1751), in William Earnest Henley (ed.), The Complete Works of Henry Fielding, esq., xiii: Legal Writings (New York: Barnes & Noble, repr. 1967), 117.

16)Thomas Andrew Green, Verdict according to Conscience: Perspectives on the English Criminal Trial Jury 1200-1800 (Chicago: University of Chicago Press, 1985), 281.

17)陪審は、年評価額10ポンド以上の自由土地保有者からえらばれた、その州の住民であった。中間階層(middling sort)が、ほぼそれに該当する。4 & 5 William and Mary, c. 24; 3 George II, c. 25; Peter King, 'Illiterate Plebeians, Easily Misled': Jury composition, experience and behaviour in Essex, 1735-1815, in J. S. Cockburn and T. A. Green (eds.), Twelve Good Men and True, 254-304.

18)A. R. Ekirch, Bound for America, 37, 42-43.

19)D. Hay, Property, authority and the criminal law, 43-44, 45, 45-46.

20)18世紀の司法における内済の重要性について、たとえば、Robert Shoemaker, Prosecution and Punishment: Petty Crime and the Law in London and Rural Middlesex, c. 1660-1725 (Cambridge: CUP, 1991), esp. 81-94; 債務訴訟について、栗田和典「『統治しがたい』囚人たち——1720年代のロンドン・フリート債務者監獄」『史学雑誌』105編8号(1996年)、45〜46頁。

21)John M. Beattie, Crime and the Courts in England 1660-1800 (Oxford: Clarendon Press, 1986); Peter King, Crime, Justice, and Discretion in England 1740-1820 (Oxford: OUP, 2000).

22)J. Beattie, Crime and the Courts, 377-78, 438. 罪状認否から評決まで、1件あたり、約30分であった。

23)P. King, Crime, Justice, and Discretion, 298-315.

24)Ibid., 315-319.

25)Lincoln B. Faller, Turned to Account: The Forms and Functions of Criminal Biography in Late Seventeenth- and Early Eighteenth-Century England (Cambridge: CUP, 1987), 158-159.

26)H. Fielding, An Inquiry into the Causes of the Late Increase of Robbers, & c., 109; Peter Linebaugh, The Tyburn riot against the surgeons, in Albion's Fatal Tree, 65-117.

27)V. A. C. Gatrell, The Hanging Tree: Execution and the English People 1770-1868 (Oxford: OUP, 1994), 448.

28)参照、近藤和彦『民のモラル』、11〜12頁。

29)V. Gatrell, The Hanging Tree, 248-249. 以下の小論は、史料の所在を注記する箇所はのぞいて、ibid., 447-493, にもとづく。

30)もとの史料は、PRO, HO 47/75.

31)参照、バリー・トリンダー/山本通訳『産業革命のアルケオロジー——イギリス一製鉄企業の歴史』(新評論、1986年)、159〜164頁。

32)すでに1節でのべたように、開廷期間の最終日に執行猶予と恩赦が認可された。Cf. Peter King, Crime, Justice, and Discretion, 297; 川北稔『民衆の大英帝国』、101〜102頁。ノーデンの裁判はシュルーズベリでひらかれた巡回法廷の最終日に7時間かけておこなわれたものであり、陪審の推挙もあったので、ふつうであればその場で執行猶予となったはずである。

33)カルロ・ギンズブルグ/杉山光信訳『チーズとうじ虫——16世紀の一粉挽き屋の世界像』(みすず書房、1984年);ナタリー・Z・デーヴィス/成瀬駒男訳『マルタン・ゲールの帰還——16世紀フランスの偽亭主事件』(平凡社、1985年);Natalie Davis, Women on the Margins: Three Seventeenth-Century Lives (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1995)〔長谷川まゆ帆ほか訳『境界を生きた女たち』(平凡社、2001年)〕.

34)たとえば、山本通『近代英国実業家たちの世界——資本主義とクエイカー派』(同文館、1994年)。

35)N. Z. Davis, Fiction in the Archives: Pardon Tales and their Tellers in Sixteenth-Century France (Stanford: Stanford University Press, 1987)〔成瀬駒男・宮下志朗訳『古文書の中のフィクション——16世紀フランスの恩赦嘆願の物語』(平凡社、1990年)〕.

36)ピーター・バーク/稲葉公一・松村高夫訳「歴史的叙述——再生 か新生か」草光俊雄ほか(編)『英国をみる』(リブロポート、1991年);特集「歴史学とポストモダン」『思想』838号(1994年);ロジェ・シャ ルチエ(編)/水林章ほか訳『書物から読書へ』(みすず書房、1992年);同/福井憲彦訳『読書の文化史——テクスト・書物・読解』(新曜社、1992 年);同/長谷川輝夫・宮下志朗訳『読書と読者——アンシャン・レジーム期フランスにおける』(みすず書房、1994年);ロジェ・シャルティエ、グリエ ルモ・カヴァッロ(編)/田村毅ほか訳『読むことの歴史——ヨーロッパ読書史』(大修館書店、2000年)、など。

37)N・Z・デイヴィス『古文書の中のフィクション』、56〜68頁。

38)V. Gatrell, The Hanging Tree, 613-614.

39)Peter King, Crime, Justice, and Discretion, 297.

40)たとえば、公文書館のウェブサイト(http://www.pro.gov.uk/)から、カタログが電子化されているSP34を "pardon" というキーで検索すると、101件がそれに該当する。"criminal petition / report" などをくわえれば、600件をゆうにこえる。

41)PRO, SP34/35/47.

42)この項目には、盗品を返却したといううったえをいれた。たとえば、PRO, SP 34/35/64, 65, 120, 34/36/109, 111, など。

43)順に、PRO, SP 34/34/32b-c; 34/35/57; 34/35/121; 34/36/58; 34/36/120.

44)PRO, SP 34/35/58, 34/38/11, など。

45)PRO, SP 34/31/62.

46)Eve McLaughlin, Reading Old Handwriting (Aylesbury, 1979); Andrew Wright, Court-Hand Restored (London, 1879).

47)David Cressy, Literacy in context: Meaning and measurement in early modern England, in John Brewer and Roy Porter (eds.), Consumption and the World of Goods (London: Routledge, 1993), 305-319.

48)松塚俊三『歴史のなかの教師——近代イギリスの国家と民衆文化』(山川出版社、2001年)、102〜132頁。

49)たとえば、A LETTER of Advice from the French Gentlemen of Ireland, to Doctor John Andounin Prisoner in Newgate, how to procure his Pardon or make off with his Life (Dublin, 1728), のような手引き書もあった。

50)Cf. William Blackstone, Commentaries on the Laws of England, iv (1769), 14-16.

51)もちろん、みじかい期間に能率的に史料を収集しなければならない、という制約もあった。Intertextuality ということばをはじめて知ったのは、Amanda Vickery, Golden age to separate spheres? A review of the categories and chronology of English women's history, Historical Journal, xxxvi (1993), 383-414, からである。しかし、過去を解読するのに、単独のシリーズの史料や手稿文書にあたればよいのではないこと、刊行史料、編纂された史料集、二次文献など、複 数の史料や研究成果をすりあわせるのが決定的に重要であることなどは、すでに、近藤和彦「18世紀マンチェスタ社会史——関係史料をどう捜すか」『史学雑 誌』91編12号(1982年)、34〜52頁、にあきらかである。また、同『民のモラル』、第3章「法の代執行——食糧一揆の世界」は、その結実したか たちといえる。

52)栗田「徒弟シェパードの・死を前にしてのことば・」の207頁の記述、および、222頁の註14,16,にかかげた参考文献を参照されたい。

53)The ORDINARY of NEWGATE his Account of the Behaviour, Confessions, and Last Speeches of the Malefactors that were Executed at Tyburn on Friday the 4th of May, 1705 (London, 1705). この『談』の作成者は、ポール・ロレイン(Paul Lorrain, ?-1719)師であった。参照、栗田「徒弟シェパードの・死を前にしてのことば・」、213〜219頁。

54)Old Bailey Session Papers, は、The Old Bailey Proceedings 1714-1834, というタイトルで、The Harvester Press, からマイクロフィルムが刊行されている。香川大学に所蔵されたこの史料を分析する研究が進行中である。栗原眞人「1730年代のオールド・ベイリ(1)(2)(3)」『香川法学』18巻1号(1998年)、18巻3・4号(1999年)、19巻2号(1999年)。

55)Cf. Roger Hood, Capital punishment: A global perspective, Punishment and Society: The International Journal of Penology, iii (2001), 331-354.

56)その意味では、匿名の脅迫状の分析などとも共通点がある。Edward P. Thompson, The crime of anonymity, in Albion's Fatal Tree, 255-344.

57)Edward P. Thompson, Whigs and Hunters: The Origins of the Black Act (London: Allen Lane, 1975).

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