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ジェイムズ・エドワード・オゥグルソープとジョージアの実験

はじめに

 アメリカ合衆国ジョージア州といえば、マー ガレト・ミチェル『風とともに去りぬ』(1936年、映画公開は1939年)の舞台として知られるように、南北戦争でアメリカ連合を構成した11州の一つ であり、黒人奴隷制の展開した典型的な南部のイメージがつよい。しかし、北アメリカにおける最後のイギリス領植民地として成立した当初(1733〜52 年)、ここジョージアでは奴隷制が禁止されていた。そして、この体制の現地総責任者といえる人物が、ジェイムズ・エドワード・オゥグルソープ(James Edward Oglethorpe, 1696-1785)であった。
 本共同研究において、わたしの分担はイギリス本国における統治の問題であった。この報告書でふれる内容が時代的に前に ずれ、一人の人物の植民地経験をあつかうのは、数回の研究会から、イギリス帝国史研究のキーワードがジェントルマン(資本主義)と帝国意識であるとされた ことに関連する。帝国形成の初発に存在していた、支配の言説の再生産に回収されない「周縁の経験」を呈示することで、二つのキーワードを相対化してみたい と考えたのである。また、ジョージアが実験的な前衛植民地であったことから、人間の管理のテクノロジーについて、純粋な試行形態が明示される見通しもあっ た。以下では、本研究の経過報告として、ジョージアにおける統治と管理の特徴を、奴隷制をめぐる議論との関連で整理することにする。
 

1.ジャコバイト、監獄調査、そしてジョージアへ

 ジョージア植民までのオゥグルソープの経歴は、ジャコバイト(主義)が通奏低音をなした。この点については、すでに発表したものがあるので、要点のみを略述する。


 オゥグルソープの父、陸軍准将サ・シオフィラス(1650-1702)はチャールズ2世の騎馬衛兵をつ とめ、名誉革命後はウィリアム3世への臣従を拒否した。チャールズの宮廷につかえたエリーナ(?-1732)とのあいだに生まれた兄弟姉妹は計9人であ る。姉妹4人はいずれも、サン・ジェルマンにあったステューアト亡命宮廷でそだてられた。成人した第3男ジェイムズ・エドワードは、1715年に軍隊を辞 して大陸にむかい、1718年にウルビーノで王位僭称者ジェイムズ・エドワード・ステューアトに謁見した。

 1722年にサリ州ヘイズルミア選挙区から庶民院議員に選出されたオゥグルソープの議会デビュー演説は 1723年4月8日、あらたなジャコバイト侵攻を画した首謀者、ロチェスタ主教アタベリ(1662-1732)を国外追放に処する法案に反対したもので あった。この演説をもって、かれは「ジャコバイト」のラベルが貼られることになる[Ettinger 1936: 85-86]。「ジャコバイト」は反体制派、非主流派を意味した。

 議会人としての失敗のあと、オゥグルソープは社会問題に目をむける。1728年の匿名の小冊子では、強 制徴募による水兵の補充を非難した。1729年と1730年の債務者監獄調査では、議会の調査委員会(通称:監獄委員会)の長として、監獄役人による搾取 と一部の債務者の貧困を目のあたりにした[栗田 1991, 1996]。党派と社会層をこえた視野のひろがりであった。

 この監獄委員会からオゥグルソープは、二つの経験をえた。一つは、協力者たちとの出会いである。委員会には100名以上の庶民院議員が任命されたが、全員が勤勉につとめたのではなく、活動的なメンバーは15名ほどであった[1][Baine 1989: 346]。これがジョージア植民信託団(the Trustees for establishing the colony of Georgia in America)の核となる。すくなくとも受託者となった庶民院議員は、すべて監獄委員会の経験者であった。

 もう一つの経験は、政治力学にかかわる。1729年の調査で判明した監獄役人の搾取にたいして、監獄委 員会は訴訟を提議し、ただちに司法手続きにはいった。しかし、ことごとく敗訴におわったため、政治的な影響力が不正に行使されたとの疑念がもたれた。 1730年4月から5月、監獄役人とその監督者にあたる民訴法廷首席判事の密会疑惑を、監獄委員会が調査した。疑惑が立証されれば、政権のスキャンダルと なりえた。しかし、調査は頓挫した[栗田 1996 & 1997]。ここにオゥグルソープは、社会問題の調査やその対策でさえ、イングランド本国においては党派・宗派の磁場に巻きこまれてしまうことを悟ったの であった。
 

2.植民地ジョージア

 政策を実現するための集団を獲得し、一方で国内政治の限界をさとったオゥグルソープは、慈善植民地を構想しはじめる。そのイメージは、かれが1731〜32年に執筆した冊子群で公けにされた[Oglethorpe 1732a, 1732b, 1732c, 1732d]。カロライナのサヴァナ川南岸への植民地建設が海外福音普及協会をつうじて国王に申請され、1732年6月9日に勅許が交付された。


 イギリス領北アメリカ植民地は、一般にニューイングランド、南部、中部、フロンティア地域の4つにわけ られる。ニューイングランドは、住民共同体としてのタウンとタウンミーティングによる自治を特徴とし、本国とほぼおなじ社会が展開した。南部では黒人奴隷 制プランテーションによるタバコ、米、インディゴの栽培がおこなわれた。中部は穀作地帯で、その社会はニューイングランドと南部の中間的であった。フロン ティア地域は、中部・南部の奥地=西部であり、スコットランド高地地方出身者など、イギリスの周辺地域からの入植があった。先住民インディアンやスペイ ン、フランスとの緩衝地帯であったから、軍事が優先された。ジョージアは地理的には南部、社会の特徴という点ではフロンティア地域に分類されよう。また、 勅許にもとづいて形成された植民地という点では、自治植民地のコネティカット、ロードアイランド、マサチューセッツ、ヴァジニア、領主植民地のニューハン プシャ、ニューヨーク、ニュージャージ、ペンシルヴァニア、デラウェア、メリランド、カロライナと共通した[歴史学研究会 1992: 151-170; 野村 1998: 8-24]。

 ジョージアに特異な点がなかったかというと、そうではない。たとえば、勅許状[2] にもとづいて設立された信託団は、立法権、現地当局者の任命権をもつ事実上の政府をなしたが、ジョージアにわたったのはオゥグルソープひとりであった。ま た、受託者個人に植民地の土地所有がみとめられなかったことは、この計画の公共性をあらわしていよう。救貧社のような、statutory authority for special purposes にちかい印象もうける[坂下 2001]。

 ジョージア植民の喧伝された目的は、オゥグルソープの著作から、およそ4点を指摘することができる。ま ず、イングランドの貧民対策である。ついで、イングランド本国の輸出産業の市場拡大と、イギリス領北アメリカ南部植民地の防衛スペイン領フロリダとの緩衝 地帯の形成があった。「17歳から45歳の男子はすべて、植民地の防衛のために武装することが義務づけられ」る、一種の屯田兵(farmer- soldier)的な構想であった。目的の第4は、生糸やオリーヴなど、南ヨーロッパの諸国から購入しているものを生産し、本国へ安価に供給することであ る。植民地物産による輸入代替策であった[川島 2001]。重商主義的な博愛主義、つまり、イングランド本国の社会問題を植民地に流して解決し、あわよくば帝国の防衛・拡大に役立てようとする発想の枠 内におちついている。

 最初の入植者となった114名[3]や 牧師ヘンリ・ハーバト(?-1733)とともに、オゥグルソープは、1732年11月17日、イングランドを出航した。翌年1月13日にサウス・カロライ ナのチャールズ・タウンへ到着、1ヶ月後の2月12日に、サヴァナ河口から約16キロ上流のヤマクロウ岬に上陸し、開墾を開始した[Ettinger 1936: 130-132]。この最初の入植地サヴァナは、ジョージア植民の目的を現実化した側面と、本国社会のコピーととれる側面がみられた。

 まず、土地の保有形態である。図からも確認できるが、開墾地は均等に分与された。入植者1家族あたり50エーカであった[4]。また、信託団の許可なく譲渡・売却できなかった。軍役の代償、一種の封土(fief)と理解したほうがよいのかもしれない。自費渡航者に最大500エーカまで、年季あけの奉公人に20〜25エーカの土地がみとめられた。しかし、譲渡・売却の制限は入植者と同一であった。

 信託団は、勤労という徳の欠如するがゆえに人は貧困におちいる、とみた。したがって、貧困者を有徳の市 民に再生する手段は労働以外になく、その重要な動機づけが、本国においてはのぞみえない土地保有であった。ジョージアの実験とは、生産手段への接近の機会 均等を人為的に創出し、投下労働量におうじて富が分配される制度であった。

図 入植地サヴァナ

(出典:Jackson & Spalding 1989: 63)

 
 勤労に価値をおいた信託団の土地制度、入植 者の数をふやし、屯田兵力を確保しなければならない軍事的な使命は、必然的に黒人動産奴隷制を否定した。生糸やワイン、オリーヴの生産、あるいはクルミや オレンジ、レモン、リンゴ、西洋ナシなどの採取が推奨され[Oglethorpe 1732c: 214]、プランテーション経営が不必要とされたことからも、奴隷の必要は低くみなされた。
 
 特徴の3点目は、ラム酒の輸入、飲用の禁止である。泥酔がもたらす怠惰を防止するためであった。ただし、オゥグルソープの著作に限定すれば、禁酒はインディアンとの関連で言及されている。
「インディアンの人口は、……大きく減少してしまった。……かれらの破滅のもう一つの大きな理由は天然痘であり、……ラム酒はかれらにとって死にいたる酒となったのであった……。」[Oglethorpe 1732c: 216-217; cf. Oglethorpe 1733: 242; Oglethorpe 1739: 250]

 最後に、宗教あるいはイングランド国教会の問題がある。図の左手前から中景にかけて、未完成の防柵がみえるが、その予定線の左側に建物がある。ここがサヴァナの「牧師館(the Parsonage House)」であった。じつに周縁的な位置にある。

 
 イングランド国教会はジョージア植民に無関心でなかった。信託団のメンバーには5名の聖職者がくわわってお り、SPCKの関与もあった。ハーバトの死去をうけてえらばれたサミュエル・クインシ師の給与は国教会が負担した。このクインシが免職されたあと、信託団 にえらばれた人物は、ジョンとチャールズのウェズリ兄弟であった。

 こうした関与にもかかわらず、聖職者の演じた役割は周縁的なものにとどまった。その理由は、まず、ジョージア勅 許状が宗教上の寛容原則をとったことがある(「神を敬うことにおいては、良心の自由がみとめられるべし。……ただし、教皇主義者(Papists)をのぞ く」)[Cf. Oglethorpe 1732c: 225-26]。それは信仰や精神的な事項にたいする無関心にもつながった。極端ないい方をすれば、世俗の指導者にたいする聖職者の従属は、イングランド 本国の地方における地主と主任牧師との関係そのままであった[Jackson 1989]。宗教はジョージアを平穏にたもつかぎりゆるされたのであって、オゥグルソープの逸脱行為をうたがったり、秩序に維持に反すれば、罷免が待って いた。サヴァナは信仰共同体ではなく、将軍のもと、兵農一致のミリタリズムが優先される封建的共同体であった。
 


 

3.奴隷制をめぐって

 オゥグルソープは、ほぼ一貫して黒人奴隷制を禁じてきた。しかし、かれの論拠がつねにおなじであったわけではない。


 ジョージアにわたる直前の1732年1月、オゥグルソープは、アフリカからイギリス領西インド諸島へ奴 隷の輸入をおこなう特権カンパニであったアフリカ会社(Royal African Company, 1672-1750)の副総裁に就任した。すでにかれはジョージア植民の小冊子をいくつか執筆していたが、黒人奴隷はカロライナの発展の指標として肯定的 にもちいられている[Oglethorpe 1732c: 213, 228; cf. 歴史学研究会 1992: 284-286]。オゥグルソープは、原則的に、奴隷貿易や黒人奴隷制を容認していた。また信託団が奴隷制を禁じたのは、ジョージア、とくにイングランド 人以外が入植したエベネーザやデアリエン、前衛基地の性格の濃いフレデリーカやオーガスタではなく、労働によって白人が再生されるユートピア、サヴァナに 限定されていた[Wood 1989: 67]。

 信託団がその統治策を明確にしたのが、1735年の奴隷制禁止立法であった。ただし、本国議会に議席を 占めていた西インド・プランタへの配慮もあって、1735年の立法過程において強調されたのは、信託団の土地・労働政策ではなく、黒人奴隷制の導入にとも なう軍事的な危険であり、生糸やブドウの生産における大プランテーション経営の不必要であった[Wood 1989: 72-73]。軍事的な理由では、多数の奴隷のなかに少数の白人が生活する危険が、スペインの脅威と関連づけてしめされた[5]

 ところで、すでに1676年、ヴァージニア議会は「捕虜インディアンをすべて終身の奴隷とみなす」決定 をおこなった。本来、先住民インディアンは自由民とみなされ、1662年の法律はかれらの奴隷化を禁じていた。1676年はベーコンの乱を収拾する過程で の決定であり、ベーコン派に辺境地域にあってインディアンとの緊張関係におかれた白人奉公人出身者が多く参加していたことと関連していた。多数の異人のな かに少数の者、そしてスペインの脅威という構図は、対先住民の関係でもあてはまった。

 しかしながら、インディアンとサヴァナ住民、すくなくともその指導者であるオゥグルソープとの関係は友好的であった。

「インディアンは男らしく、ととのったすがたかたちの人種である。……寛容で気だてのよい人び とであり、よそ者にたいへんやさしい。欠乏や痛みに辛抱づよく、なかなか怒ることはなく、容易に扇動されない。しかし、ひどく怒らせてしまうと、なだめが たい。たいへん聡明利発で、陽気な気質である。」[Oglethorpe 1739: 249-250; cf. 242-243][6]
すくなくともオゥグルソープのいた時期、サヴァナで先住民インディアンの奴隷化がなかったのはたしかである。
 
 サヴァナにおける奴隷制禁止の体制が変化をみせるのは、1737年11月に、信託団のサヴァナ在地書記職に任 じられたウィリアム・スティーヴンズ(1671-1753)[Sedgwick 1970]の登場以後である。スティーヴンズ本人はサヴァナの「不満分子(malcontents)」とオゥグルソープとを仲裁する中立の立場をたもとう としたのであったが、かれの息子トーマスはオゥグルソープと対立し、反信託団=不満分子の指導的な立場にたった[Spalding 1989: 83-84, 92-95]。
 「不満分子」の主張は、1738年12月、 信託団にあてて121名のサヴァナ住民が署名した請願書にあきらかである。白人年季奉公人の数が不足し、高価なわりに労働力として信頼できないこと、土地 にたいする権限の欠如によって信用=取引の担保がえられないこと、カロライナとジョージアではおなじ作物がつくられるため、安価な奴隷労働力を大量に使役 できる前者のほうがつねに有利であること、であった。「われわれの現在の不幸と植民地のこの嘆かわしき状態」を打破すべく、土地にたいする単純封土権と黒 人奴隷の許可がもとめられた[7]。請願者の多くは自費渡航者であった。経済生産性からすれば、奴隷労働力の導入は不可避ともいえた。
 事態がここにいたってオゥグルソープは、デ アリエンの住民を頼った。かれらは、スコットランド・インヴァネス周辺から1736年にオールタマハ川の北岸に入植した一団であった。故地では自給的な小 農牧畜民であって、氏族共同体の意識がつよく、土地の配分と軍役にもとづく半封建的な体制に馴化していた。デアリエンの住民は「社会的な紐帯と共同体への 忠誠心を有する」「はなはだしく勤勉な」人びとであり、「サヴァナの人びとがおこなうべく期待されたこと」をすでに実現させた、と高く評価された [Jackson 1977: 622-624]。オゥグルソープ本人は、ここが植民地防衛の第一線にある入植地という軍事的な重要性もあって、開墾当初に食糧の援助をしたり、1736 年2月の初訪問のさいにプラドをまとったりもした[8]。 しかし、サヴァナの不満分子の請願書が回覧される直前、1738年末、デアリエンは春からつづいた大旱魃のために、「ジョージアに入植したからの労苦が無 に帰」すほどの危機にあった。ここにも不満分子が登場し、土地集積の制限の撤廃、掛け売りの許可による商業の育成、サウス・カロライナへの移住、サーヴァ ント購入のための資金貸付などをもとめていた。
 デアリエンをまかされていたジョン・マキン トシュ・モー中尉は、サヴァナからの請願書を入手すると住民にみせず、聖サイモンヅ島のオゥグルソープのもとへ直行した。ジョージア植民計画が破綻のきわ にあったこの時点で、両者の取引が成立した。オゥグルソープはデアリエンでの商業活動をみとめ、白人サーヴァントの供給と200ポンドの貸付を約束した。 かわりにモーは、1739年1月3日、支持者、友人、血縁者17名が署名した請願書をオゥグルソープにわたした。以上の経緯から、デアリエン住民による奴 隷制導入への反対声明は、政治的な産物以外のなにものでもないことがあきらかである[Jackson 1977: 625-631]。

 デアリエン請願は、奴隷制導入への反対理由とし て5点をあげた。順に、(1)逃亡奴隷に自由を約束したスペイン人入植地の地理的な近さ、(2)デアリエン住民の勤勉さと白人労働力の有用性、(3)奴隷 の購入にあてる資金の欠如(購入を強行すれば、逆に債務奴隷化)、(4)奴隷にたいする監視の必要性、そして、(5)「どのような人種とその後裔であれ、 万が一にも永久の奴隷状態に処せられるとするなら、それは人間精神に衝撃的である」こと、であった。(1)(4)は軍事的な理由、(2)は信託団の労働政 策である。(3)はデアリエンの事情といえる。だが、(5)だけは一種の普遍的なうったえ、罪悪感の表明である。そして、オゥグルソープの手紙をたどって ゆくと、1739年1月17日付の信託団にあてた書状のなかに、これと酷似したことばがでてくる。すなわち、

「もしも奴隷制をみとめるなら、まさにわたしたちが協同した原則、つまり困窮した者をすくうと いう原則に反して行動することになります。それどころか、アフリカにいる数千もの人びとの惨状をひきおこすことになりましょう。人を売り買いする策略を弄 し、永遠の奴隷状態へと、いまそこで自由に暮らす貧しい人びとをおとしいれることになるのです。」[9]
 デアリエン請願の署名者のなかに、このあとで黒人奴隷を所有したことのわかる者がすくなくとも2名いた。オゥグルソー プのこの手紙の前後は、プランタへの反感や自分の出費の償還をつづっている。人類の普遍的な自由をうったえたことばは、状況からも文脈からも、浮いた言説 である。しかし、デアリエン請願もオゥグルソープのこの手紙も、現実に存在する。
 
 この一節は、地主ジェントルマンという支配する社会層に生まれながら、党派・宗派の反主流を味わい、債務や貧 困という問題から社会の下層にふれ、みずから前衛植民地にたつことによって、先住民インディアンとの対等の交渉など、帝国の周縁を経験したオゥグルソープ の、一瞬であれ、到達した精神の普遍性であったのではないか。これは、党派・宗派の境界のない博愛的な施策、本国における出自と境遇を問わないジョージア の体制、さまざまな異質をのりこえるこころみのなかで、獲得したものではなかったか。系統的な思想としていまにのこることはなかったが、人の生きざまがつ たえる過去の可能性として、いまを生きている。

参考文献

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1994 The Publications of James Edward Oglethorpe (Athens: University of Georgia Press).

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1732b Select Tracts Relating to Colonies (London), in Baine (ed.), 169-199.
1732c A New and Accurate Account of the Provinces of South-Carolina and Georgia, &c. (London), in Baine (ed.), 206-240.
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1733 A Descriptions of the Indians in Georgia, in the Weekly Miscellany for August 11, 1733, in Baine (ed.), 242-244.
1739 An Account of Carolina and Georgia (London), in Baine (ed.), 245-254.
1740 An Account of the Negroe Insurrection in South Carolina, in the London Daily Post, and General Advertiser for March 17, 1740, in Baine (ed.), 253-255.

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1991 「バンブリジ事件ノート——1729年オゥグルソープ報告書の性格」『歴史の理論と教育』82号。
1996 「『統治しがたい』囚人たち——1720年代のロンドン・フリート債務者監獄」『史学雑誌』105編8号。
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[1] The British Journal for July 5, 1729.
 
[2] http://www.yale.edu/lawweb/avalon/states/ga01.htm
 
[3] A list of the persons sent to Georgia on the Anne by the Trustees for establishing the colony there, 16 November 1732.
 
[4] 北アメリカ植民地における平均的な自営農民の土地の規模がおよそ50エーカであり、1家族が耕作できるだけの土地と考えられる[金井 1993: 35]。
 
[5] 時代はやや前後するが、サウス・カロライナにおいて1739年9月8 日に発生したストノ蜂起では、黒人奴隷が武器をうばい、白人の家を襲撃し、南にむかった。南下の理由は、「スペイン王が……すべての黒人奴隷に保護と自由 を約束した」勅令をだしており、スペイン領フロリダのセント・オーガスティンまで逃亡すれば、解放が約束されていたからであった[Oglethorpe 1740: 253-255]。
 
[6] オゥグルソープの筆致に、先住民インディアンを「高貴なる蛮人(noble savage)」とえがこうとする傾向をみる研究者もいる[Baine 1994: 241]。
 
[7] A Petition to the Trustees, Savannah, December 9, 1738.
 
[8] James Oglethorpe to the Trustees, On board the Symond, Tybee Creek, February 27, 1736.
 
[9] James Oglethorpe to the Trustees, Saint Simon's, January 17, 1739.
 
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