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ポリスについての覚書き ——シティの治安官——

 はじめに
 「近世イングランドにポリスはなかった」とは、しばしば耳にする表現である。もちろん、フランス語経由ではいった英語の police は、18世紀のはじめ、公共の秩序とその維持よりも、むしろ、ひろく開明的に、市民的な統治、健全な都市的な環境を維持する一連の方策/民政を含意していた1。 ゆえに、ポリスを狭く、犯罪とたたかう専門的な制度・組織=「警察」と考えるなら、概念としても、実態としても、たしかに「なかった」かもしれない。ちな みに、イギリスではじめて「警察(ポリス)」の名を冠した治安維持組織は、1798年に西インド商人を主たる出資者としてマリン・ポリスの名で創設され、 1800年に政府管轄に再編・改称された、テムズ河川警察(Thames River Police)である2

 ポリス/「警察」はいつ誕生したのか。この問いにたいして、まず、1829年に内相ロバト・ピールの指導力のもとで成立した首都警察法 (Metropolitan Police Act)をあげるのが研究史の常識であった。1829年を警察史上の一大画期として強調するからこそ、それ以前の秩序維持の体制の不備をことあげし、警察 の不在をきわだたせてきた、ともいえる。こうした見方は、改革をもとめた人びとの主張を主要な史料として利用したことと不可分の関係にあった。

 「犯罪の社会史」研究は、1829年の革新性を相対化する方向で展開されてきた。たとえば、有給・専従で雇用され、制服を着用してパトロールする役人 は、19世紀に入る以前から存在していたし、治安官(constable)にたいする老齢や無能、酔漢との悪評、かれらの腐敗への非難は、かならずしも妥 当でなかったことがあきらかにされた3。総じて、あたらしい研究は治安維持体制にかんする18・19世紀の連続性を強調する。

 しかしながら、こうした研究史の展開も、重要な変化の開始時期が1829年から1750・60年代に早められただけ、と見ることもできる。すなわち、 フィールディング兄弟(Henry Fielding, 1707-54 & John Fielding, ?-1780)がボウ街(Bow Street)においておこなった、いくつかの先駆的な企画である。有給の治安判事として法廷に常駐しながら違法行為を訴追し、2度の予審を実施すること で訴追の精度をあげた。また、私的な企業者であった窃盗捕縛人(thief-taker, 目明し)を組織して、犯罪事件の捜査と街頭の警らにあたらせた。新聞雑誌に広告をだして犯罪訴追をうながし、小冊子を発行することでみずからの業績をひろ く告知した4。以後、1760・70年代のボウ街警ら団の拡大、1773年の『ヒュー・アンド・クライ』発刊、1792年のミドルセクス州判事法(首都に7警察署を設置)、パトリク・カフーン(Patrick Colquhoun, 1745-1820)、テムズ河川警察へと改革はつづく。

 18世紀なかばから末にかけて、近代的な警察の萌芽がみられたことを確認しても、依然として16世紀から18世紀前半までの時期には「ポリスはなかっ た」ままである。だが、1829年の首都警察の管轄がシティ(City of London)をふくまず、ボウ街治安判事の担当もウェストミンスタであったことの含意に注意してはどうであろうか。シティがボウ街よりも早い時期に治安 維持体制をととのえていた、と見ることはできないであろうか。ロンドンだけをみてイングランド、ブリテン諸島を論じられるとは微塵も考えないが、シティを 除外してロンドンを論じられるとも思えない、とわたしは思う。

 小論の目的は、ジョン・ビーティの著作5に よりながら、17世紀末から18世紀前半におけるシティの治安維持体制を末端で担った治安官をとりあげ、治安官制度に生じた、小さな、しかし重要な変化を しめすことである。これは、別稿を用意している恩赦嘆願状の研究と密接不可分の関係にあり、死刑囚に関与する人びとの制度的な背景を画定してゆく作業の一 環である。以下では、治安官一般の職務、選出方法と被選出層、一部の恩赦嘆願状にみられる治安官の順にとりあげてゆく。

 1. 治安官の職務
 中世のカンスタブル
 治安官の原語 constable は、1066年のノルマン征服につづく時期に、イギリスのコモンローに導入されたと考えられている。語源的には、ビザンツ皇帝テオドシウス2世(在位 408-50)が編纂させた法典にある comes stabuli(officer of the stable, or marshal:所在/厩舎の管理人)にまで遡及できるという6。 ノルマン朝最後のスティーヴン王(在位 1135-54)の時代には、中央の官吏として Lord High Constable of England の職がもうけられ、王国の軍事をつかさどった。地方では城砦の維持・管理にあたる役人にも constable の名称があたえられた。ジョン王の治世(1199-1216)に、それ以前から治安維持の義務を負っていた郡(hundred)の役人にたいして、管轄区 域内の男を武装させて招集する責任があらたにくわえられ、エドワード1世の治世期(1272-1307)までに上級治安官(high constable)の名が定着した7

 一方で村落のレヴェルに目をむければ、ヘンリ3世の治世(1216-72)に、各村・各字(township)で1〜2名の治安官(petty constable)をおくことが要求され、かれらには、日常の治安維持にももちいられる地域の兵力の査察が義務になった。先行法を集成した1285年のウィンチェスタ法(Statutes of Winchester)でこれを確認できる。つまり、イングランド各地の小共同体の平和をささえる役割をあたえられたのが、村の治安官であった。かれらが、小論のあつかう対象である。

 中世における村の治安官の職務には、まず、治安維持の職務として、公的な場所での乱闘や武装して騎乗する者への対処、窃盗をふくむ被疑者全般の逮捕と州 奉行や典獄のもとへの連行があった。だが、基準となる度量衡の保管、奉公人や労働者の労働条件にかかわる法を無視した者の逮捕、労使関係の違犯について治 安判事に証言を提供するなどの社会経済にかかわるとりしまり、さらには、徴税もおこなった8。こうした職務のひろがりは、制定法にさだめられたほか、おなじく中世に創設された治安判事(justice of the peace)など、上位に位置づけられた官職者の命令を実行する役割からも生じた。職務の肥大化は近世にも継続する。

 近世の治安官
 テューダ朝のもと、とくに1580年代から、治安判事が地方統治組織の要にすえられると、治安官の地位はその下に位置することがいっそう明確になった。 また、教区が宗教改革以降に行政単位としての機能をつよめると、教区委員や貧民監督官とならんで、治安官は教区選出の役職となった9

 と同時に、職務もさらに増加した。17世紀のサセクス州を中心にして刑法の執行と地域共同体の関与を研究したC・B・ヘラプは、治安官を「何でも屋 (Jack of all trades)」と表現している。教区の治安官(headboro)の職務には、選出された共同体内で生じた騒ぎへの対処、不審な余所者のとりしまり、叫 喚追跡(hue and cry)への対応とその指揮、不法な居住者にたいする毎月の調査、醸造業や賭博業の統制をはじめとする社会経済のとりしまり、捜査・逮捕・連行をもとめる 司法命令の執行、地方税の徴収や道路・橋梁の保守、下位の教区役人の職務履行状態の監督などがあった。さらに、四季法廷に出席し、定期的に陪審をつとめる ようにもとめられてもいた10

 肥大化した治安官の職務については、治安判事とおなじく、エリザベス時代のウィリアム・ランバード(William Lambarde, 1536-1601)をはじめ、さまざまな手引きがポケット版で出版された11。 ただし、民兵とその武器の査察・管理などの軍事的な性格はうすれ、民政と治安維持、すなわち広義のポリスを担当するのが、かれらの役割となったといってよ いと思われる。また、かれらがしたがう治安判事は、大法官によって任命されたが、国王に任命される州長官(Lord Lieutenant)のもとで地方行政の実務をあつかう立場にあり、したがって、中央からみれば、治安官が統治組織の末端に位置することになった。それ ゆえ、1618年3月にバートン(スタフォドシャ州)で発生した「性的に淫乱」な新参者への民の裁きをあつかうJ・ケントの論文に言及しつつ、近藤和彦が 論じたように、地域の代表であるとともに、国家権力の末端の担い手でもあるというディレンマに立たされたのであった12

 17世紀後半から18世紀はじめにかけてのシティの治安官
 シティは、当然のことながら、都市区域である。相対的に狭い地域に人口が集中し、人の流動性が高いという点で農村とは異なる。また、シティのような自治特権都市では、領主とは異なる寡頭的な団体=参事会が都市の統治をになっており、ポリスはまずここへゆだねられた。
 ロンドンの場合、26区(ward)から一人ずつの参事会員がえらばれ、終身の職をつとめた13。 かれらのうちの1名が1年の任期で市長になり、市長経験者、年長の参事会員、法律顧問官(recorder)とともに治安判事を兼ねた。市長は市庁舎で年 8回(1,2,4,5,6,8,10,12月)、治安判事法廷を開催するとともに予審をおこない、年8回のオールド・ベイリでの刑事巡回裁判(oyer and terminer)、在監者巡回裁判(gaol delivery)を主宰した14

シティの26区
シティの区

 各区の有力者たる参事会員の会議(Court of Aldermen)を頂点にいただくシティのポリス体制が目標としたものをあげれば、以下の4点にまとめられる15

 まず、物理的な意味での治安維持がある。これは、とくに街頭・路上におけるとりしまりであり、公的な空間における秩序問題である。なかでも、群衆のコン トロールは重要であった。反体制的な示威行動や何らかの大義をかかげた騒擾だけでなく、暴力的なものに展開する可能性をもったすべての群衆行動——たとえ ば、市長就任式(Lord Mayor's Show)をはじめとする祝祭日、公開処刑の場やさらし台にあつまる人びと——にも対処がもとめられた16。群衆がコントロール不能になる危険はつねにあり、また、スリのような犯罪的な行為に機会を提供したからでもある17

 つぎに、精神またはモラルの秩序維持である。非行(vice)の防止と正しいふるまいの奨励が必要とされた理由は、モラルの堕落こそが、違法行為を犯す にいたる決定的な第一歩と考えられたからである。穀価に代表される生活物資の価格変動や兵卒の徴発・復員などの労働力市場の動向と違法行為の件数との関係 は、おそらく経験的に把握されていたが、しかし、犯罪防止対策はあくまでモラルの改善(moral reformation)にもとめられたのである18。1699年に組織された救貧社(the Corporation of the Poor)の賛助をうけた、ビショプスゲト街の労役所は、路上にたむろして暮らす浮浪者や子どもを収容して読み書きを教え、仕事をあたえることによって勤勉の習慣を身につけさせ、自助にみちびくべく設置された施設であった。

 第三に、狭義の/現代的なポリス活動ともいうべき犯罪の予防、そして、これと密接に関連するものとして、第四に、捜査がある。犯罪の予防を達成するもっ とも直接的な手段とは、監視やパトロールであった。とくに、住民がもっとも犯罪にさらされやすい夜間のパトロールが犯罪予防に効果的であると理解されてい た。しかしながら、違法行為者が確実に逮捕されて有罪判決をうけ、適切に処罰される仕組みの確立していない社会において、パトロールによる犯罪の予防は実 効がなかったかも知れない。おそらく、実施されることがほとんどなかった叫喚追跡19に かわる制度も、17世紀から18世紀なかばまでのシティでは存在しなかった。また、逮捕を確実にするはずの捜査は、治安維持にかかわる者の権限にふくまれ なかった。わずかに、窃盗捕縛人という、制定法によってさだめられた公的な報酬を追求する私的な企業家が、逮捕と捜査の役割を担いはじめたのがこの時期で ある20

 治安官は、教区吏員(beadle)とともに、こうした治安維持活動の現場をあずかる役職であった。「立法府が法をつくり、治安判事が令状を発すること はできようが、しかし、こうしたことすべての実施、遂行は、まったくのところ、かれらのもとにある役人の誠実と精力的な活動とに左右されるのである」21。その職務を列挙すれば、以下のようである22

a.街区=近隣の地域にたいする全般的な監督
 抑止されなければ人を犯罪へといたらしめるとみなされた不道徳な行為を、治安官が参事会員や区の市会員(common councillor of ward)に報告した。また、参事会員や治安判事、シティ当局の要請で、騒動や威嚇・暴行事件にたいして介入し、退去命令の執行によって事態の沈静化につ とめた。ただし、昼間のパトロールによってこれを達成することはもとめられていない。それは、つぎの職務との関連である。

 b.犯罪事件の被害者からの要請におうじて、容疑者を逮捕・連行
 治安官による昼間パトロールがかならずしも歓迎されなかったのは、住民の警戒心もあったが、自宅待機、あるいは昼間の所在の明確化により、被害者への対 応義務を果たさねばならなかったからである。この職務に関連して、治安官は一般の市民に通常の状況ではみとめられていない権限——たとえば、逮捕や投獄の 権限、および職務遂行時における家宅への立ち入り権限——を有していた。

 c.交通整理
 シティには、18世紀はじめ、徒歩、馬、大型馬車などの交通を分離する方法すらなかったので、往来の安全を確保する役割を治安官にあてた23。 とくに問題であったのが、王立取引所近辺で商売をした貸し馬車業者のとりしまりであった。1682年に市会が貸し馬車とりしまり条例をさだめると、治安官 がその執行に責任を負ったが、1年間の任期で、職務の訓練をうけることなく、また、集団としてのまとまりをもたない治安官が、貸し馬車業者と現実に対決し た可能性は低い。むしろ、1692年までに「街頭警備官(streetman)」とその助手が任命され、1682年の条例の実行部隊となった点が注目され る。かれらは治安官とおなじく宣誓してその職につき、条例の遵守を拒む業者の逮捕権限を有していた。特定の目的を達成するための治安官 (constable for special purposes)である。街頭で浮浪者を逮捕して労役所に収容、「秩序を害する(disorderly)」収容者を統制した労役所管理官 (porter)もまた、この種の治安官であった。

 d.浮浪者対策
 労役所管理官とは別に、正規の治安官も、浮浪者の街頭からの一掃をシティの大陪審や参事会からもとめられた。浮浪が問題なのは、人びとを社会に統合する 装置であった労働と家族からの離脱を意味したからであり、かつ、犯罪にはしる可能性が非常に高いとみなされたからである。とくに、起訴件数が増加したアウ グスブルク同盟戦争(1688〜97年の「九年戦争」)終結後の1690年代末は、治安官への重圧が増した。

 e.群衆のとりしまり
 ここでの治安官の役割は、しかし、消極的なものにとどまった。爆竹が火災に、かがり火が制御不能にならぬよう、安全を確保すること、奉公人や徒弟がみだりに金銭を費消しないように監督すること、である。

 f.処刑場への同行
 群衆のとりしまりと不可分の任務であるが、たとえば、タイバン処刑場までの護衛をシティの治安官は18世紀なかばまで職務としていなかった。オールド・ ベイリやニューゲト監獄とちがって、タイバンがシティの域外にあったためでもある。かれらが関与したのは、シティのなかでおこなわれた処刑、笞打ちやさら し台のたぐいであった。タイバン処刑場のような数万人規模ではなかったが、しかし、その場の治安は刑囚にたいする群衆の態度に左右されたから、治安官に とって困難な職務の一つであった。18世紀後半には、ここでも特定の目的を達成するための治安官が雇用された。

g.夜間の秩序維持=夜警の組織
 夜間の警戒は治安官の職務の中心となる事項と考えられていた。したがって、その職についた以上、まぬがれることのできない義務であった。

h.捜査への協力
 違法行為の捜査を実施し、犯人を発見・逮捕、告発の形式をととのえて提出することは、治安官の職務とみなされなかった。あくまでこれらは、被害者個人に ゆだねられた。ただし、治安判事が治安官をつかって違法行為者の発見を助力させることは可能であり、あるいは、治安官が私的な企業家たる窃盗捕縛人になる こともできた。

 2.選出された治安官
 選出のしくみ
 治安官の選出はローカルな慣習にもとづいておこなわれた。州長官と治安判事の下位におかれた治安官も国王の役人といってよかったが、しかし、そ の選出はローカルな団体によるものであり、したがって、選出方法は地方によって多様であった。たとえば、有資格者とみなされる住民、選出の権利をもつ人び と、選出の場などが異なっていた。

 治安官には公式の訓練がなく、1年任期で交替する役職であったから、法を執行するさいに共同体の協力は不可欠であった。おなじようにアマチュアであって も、地方のジェントルマンが就任したので社会的な上位者であることが明白な治安判事とはちがい、治安官はあくまで選出者にとっての同等者であったから、周 囲の人びとのささえ、同意を確保しなければ、職務を遂行するさいに生じる抵抗に対処できなかった24。であるから、選出には共同体が関与すべきであり、じっさいにも関与したのである。

 治安官の有資格者は、「誠実(honesty)」「知識(knowledge)」「能力(ability)」を有する者とされたが、現実には統一された規定はなかった25。 ただ、すくなくとも、精神的な欠陥をもつ者、幼児、女は資格なしとされ、また、治安判事、州奉行(sheriff)、弁護士(attorney)、内科医 などは免除職とみなされた。おそらく、前2者は地方の統治機構における上下関係から、後2者は前2者を輩出する可能性の高い社会層という点からはずされた のであろう。テューダ朝からステューアト前期をあつかったJ・ケントによれば、多くの場合、選出の母体となる地域に保有財産があり、そこに居住する者が治 安官を提供する義務を負っていた26。したがって、当人は資格を有さなかった女も、居住している保有財産にたいしては治安官をだす(兄弟や息子など)義務があった。

 共同体を母体とした治安官の選出手続きは、州奉行法廷(sheriff's tourn)や領主法廷(court leet)の春期開廷期でおこなわれるのが伝統的であった。しかし、両法廷の関与の度合いは多様である。たとえば、レスタシャ州ブランストン (Branston)では、13軒の、おそらくは自由土地保有者である世帯が、順ぐりに治安官をつとめており、領主法廷はその年の治安官をただ承認するの みであった。ハーフォドシャ州ブシ(Bushey)やランカシャ州マンチェスタ(Manchester)では、領主法廷の陪審が有資格者のなかから選択し た。前任の治安官がしめした複数の人物から陪審が選出したところ、所領管理人が陪審または前任の治安官の提案したなかから選択したところもあった27。 さらに、州奉行は、16世紀にはいると、州長官(lord lieutenant)や治安判事の台頭によって、選挙集会の主宰などをのぞき、権限が縮小した。領主法廷も衰退し、消滅した地域があった。その場合は、 両法廷での選出に代替すべく、住民が治安官選出のためだけに集会をもったり、治安判事が住民に命じて選出させたりなどした。治安判事が治安官を任命する、 あるいは、貧困、病弱、老齢などの理由で適切でないとみなした人物を罷免する事態が1630年代に生じたが28、しかし、こうした行動は例外的なものにとどまり、治安判事は関与するにしても、治安官職からの免除をのぞむ請願のあった場合にほぼかぎられた。直接に治安官をえらんで問題を解決するのは稀であった29

 治安官の選出において、州奉行法廷と領主法廷の代替となったのは、治安判事よりも、教区会(vestry)が一般的であった。これは、すでに言及したよ うに、テューダ朝によって地方統治の主要な単位として採用されたことが大きい。17世紀はじめには、治安官は教区の役人と連想されていた。ただし、制度 上、治安官が関係をもっていたローカルな単位は、字・大字またはマナ(manor)であった。字が教区と一致する場合もあったし、複数の字が教区にふくま れるところもあったので、治安官のじっさいの管轄は教区または教区の一部となった。国王という世俗権力のもとにあった治安官の管轄区域と、本来は教会の末 端組織である教区とはくいちがいが生じて当然なのであろう。しかし、しばしばこの相違を無視して、「教区治安官(parish constable)」の呼称がもちいられたのも事実である30

 ロンドンのシティの治安官は区の役人であり、一部は教区でも選出がおこなわれはじめた16世紀後半以降も、選出の承認は区法廷(wardmote)で あった。ただし、治安官の選出をおもに担ったのは、15世紀いらい、シティの行政単位となった約230の街区(precinct)であった。街区と教区 (市壁の内側に97教区、外側に13教区)が完全にかさなりあう事例はほとんどなかったが31、ともにローカルなアイデンティティの焦点となる単位であり、次年度の治安官を選出する街区の世帯主集会と教区会とは、構成員が同一であったり、協働関係を形成したりした場合があった。

 17・18世紀にも街区の数は230前後であったから、治安官の人数も230人前後である。たとえば、シティの中心にちかいコーンヒル (Cornhill)区は4街区、2教区からなる小規模な区であったが、各街区から1名ずつの治安官が毎年に選出された。1663年の世帯数は180なの で、治安官一人あたり45世帯である。一方、市壁外のファリンドン外(Farringdon Without)区は18街区、7教区、23名の治安官を擁したが、1663年に4,278世帯をかぞえ、治安官一人が186世帯を担当したことになる。 J・ビーティの算出した数値によれば、治安官一人あたりの世帯数がもっともすくないのはブレド・ストリート(Bread Street)区の25.5,最多はクリプルゲト外(Cripplegate Without)区の486.5であり、シティ全体の平均は91.2であった32。 シティの中心部ですくなく、市壁外、すなわち、近世に人口が増加した郊外の区域で多い。こうした事情は、当然のことながら、郊外の区で選出された治安官の 負担を増すことになった。しかしながら、1737年になっても、治安官の増員の法的な根拠について助言をもとめられたシティ法務官トマス・ガラド (Common Serjeant, Thomas Garrard)が、「参事会による治安官の任命権は……慣習または特許状から発生しなければならず、勅許状は今回の事例では記載がない。わたしは、市会 や参事会員会議の記録書をしらべ、今回の目的にかなう慣習の有無を検討したが……、慣習を支持する十分な証拠はないと考える」33と答えている。増員の法的根拠をあくまで追求するとすれば、制定法を獲得する手段があったが、シティはそれをおこなわなかったので、18世紀のあいだ、正規の治安官は増員されないままであった。

 治安官の社会的な出自
 「ドグベリ(Dogberry)」とは、無知でありながら尊大な役人を意味する。シェイクスピアの『から騒ぎ』(1600年に出版)に登場する同名の治 安官が、その語源である。かれは、路上の酔漢や居酒屋の見まわり、犯罪者の逮捕などの職務は心得ており、みずからが監督・組織する夜警にたいしてなすべき ことを説きながら、たくみに面倒を回避する。
ドグベリ:泥棒に出会ったら、おまえたちの職業にかけて、まともな奴ではないと疑うのがよい。だが、……ちょっかいを出したり、かかわったりしないほうがよい……。
夜警(watch):泥棒と知っても、つかまえたらいけないのですか。
ドグベリ:……万が一、泥棒をつかまえてしまったら、……こっそりと抜けださせてやれ34
このような会話を舞台上でかわすかれら は、嘲笑の対象として描かれたのであろう。ネッド・ウォード『ロンドン・スパイ』も、「大抵は恥さらしな貧民で、他人の放蕩を頼みとするポン引きまがいの 仕事をその唯一の生活手段としている」とさげすみ、「たれ込みお巡りども」の詩をうたっている35。また、1613年にある治安判事は、サセクス州のローカルな役職につく者全般にたいして、「誠実な男たちではあるが、財産は人並み、職務に属する事項を知る者はほとんどいない」と不満を述べた36

 しかし、社会的な実態を何らかの様式で表現しているであろう文学作品から、固有名詞のついた治安官について何かを語れるのであろうか。それが当時の治安 官のイメージを代表しているとしても、『から騒ぎ』に描かれた姿はどのような相互参照が可能なのであろう。また、治安判事の発言はドグベリの姿を相対化す るが、しかし、職務上の上位者が見くだす視点から発した言辞といえる。たとえば、職務手引きの存在は金銭的な余裕とかなり高い識字能力とを要求するが、そ れは「人並み」の財産で購入できるものか。あるいは、購入したとしても、それを読みながら職務をこなせるものか。現実にそれが可能であった例として、ヘラ プは、17世紀前半のサセクス州東部で特別税を課され、氏名を自署でき、遺言書をのこした治安官をあげている37。地域を特定したうえで、治安官に選出された者、現実に職をつとめた者を確定し、相互参照の可能な史料から社会的な実態をたどる研究が重要である。

 1690年代のロンドンは1692年と1694年に人頭税(poll tax)が課せられた。この課税評価にある氏名と、教区会または街区の世帯主集会の議事録、区法廷の記録簿、参事会員の法廷にたいする上申などを相互参照 すれば、治安官に選出された者の資産規模や職業をあきらかにできる。この作業をおこなったビーティは、コーンヒル、ファリンドン内(Farringdon Within)、ファリンドン外の3区を標本にえらび——それぞれに、シティの中心部、中心部の周囲、市壁外を代表させる——、1692年については 123名、94年については114名の治安官を対象にした。これはきわめて詳細で、現時点でもっとも信頼できる研究といってよい。

 コーンヒル区はシティのなかでもっとも富裕な区の一つであり、1696年には242名の男の世帯主がいた。このうち、1692年の課税のさいに付加税の評価38を うけた割合は70パーセント強であった。これが治安官に選出される集団である。シティの市民の上位に入り、共同体のなかで地位ある男たち、富裕な小売店経 営者や国内商人をふくむ層であった。コーンヒル区選出の治安官は1690年から1706年で58名を数えたが、このうちの45名が史料から同定され、その なかに海外貿易商、法律専門職、馬車の所有者など、最高の課税をうける者はなく、およそ60パーセントちかい26名が中位の課税率を適用されたリンネル 商、小間物商、書籍商や熟練職であることが判明した。のこり19名(42パーセント)が基礎課税の者たちであったが、かれらの職業は小規模な小売店経営 者、国内商人、さまざまなサーヴィス提供業者となっている39。こうした資産評価は、市会員(Common Councillor)、もしくは市庁舎の治安判事法廷やオールド・ベイリで陪審をつとめた者と類似している40。じっさい、治安官は、教区委員、教区会委員、貧民監督官、貧民対策税の徴収官など、都市のローカルな統治にかかわった経験のある人びとであった41

 コーンヒル区よりも大規模なファリンドン内区、ファリンドン外区では、シティの市民の富裕な層=かなりの資産を有する納税者(substantial ratepayer)層から選出されなかった。納税者≒治安官有資格者が約1,300名いたファリンドン内区で52名中の35名(67パーセント)、おなじく3,500名ほどの資格者のいた外区で26名中の19名(73パーセント)が基礎課税者であった42。コーンヒル区の最高課税率の者たち、および、ファリンドン内区、ファリンドン外区でホゥバンやフリート街に居住した富裕な者たちは、何らかの手段で治安官職を忌避していたと予想される。

 代理の治安官
 治安官をふくむ教区の役職を忌避する手段はいくつか存在した。17世紀末にあらたにくわわった手段をあげれば、犯罪訴追における私的な活動をうながすべく制定された、タイバン・ティケット(Tyburn Ticket)がある。これは、1699年法の規定にしたがって、重罪犯の逮捕と有罪判決に寄与した者にあたえられる報酬であり、教区ないし区の役職を生涯にわたって免除する特権の証明書であった。売却が可能で、市価は12〜40ポンドであったといわれている43

 別人に対価を支払って代理をつとめてもらうことも可能であった。こうした代理の治安官(deputy constable)は、「取引判事(trading justice)]とならんで、腐敗の代表とみなされた。1829年の新警察の革新性について中央集権化の観点から論じた林田は、1721年に10ポンド を支払って教区の役職につくことを回避したダニエル・デフォーの事例もひきながら、代理制が現実に勤務した治安官の社会階層の低下をまねき、生活のために 賄賂をうけとり、犯罪者と癒着したと指摘する「警察史家」の議論を紹介している。そして、こうした腐敗の存在を疑問視する研究、近年の夜警の効果を再評価 する研究を紹介したあとで、「結局、現状維持が貫かれたという事実は、代理制の蔓延が〔内務省直轄の〕警察創設の強い動機づけとはならなかったことを示唆 している」とまとめた44。しかし、D・フィリプスの研究をひき、代理の治安官を法執行者としてかなり有効であったと指摘しながら45、19世紀への展望が先にたって、代理制そのものの意味について検討されなかったように思われる。

 治安官に選出された男がそのつとめを回避する方法は、大別して二つあった。一つは、指名のおこなわれた街区・教区、または指名の報告と確認のなされた区 法廷で罰金を支払うこと、もう一つは、区法廷で代理を申しこみ、区のリーダ層(市会員や参事会員補佐)によって呈示された代理を受諾し、給与金を支払うこ とであった46。 1690年代後半に犯罪の件数の増大がみられ、治安維持がとくに困難な問題となると、代理によって治安官職を回避するうごきが顕在化した。これにたいして シティの参事会は、選出された男とその代理の両方に治安官としての宣誓をもとめ、代理に事故があったときなどは被選出者が代理の代理を確保する責任をもた せた。また、代理が宣誓する以前に、その人物を記録官(registrar)に精査させ、すくなくとも、治安官職を私利私欲のために利用する可能性のある 人物——たとえば、食料業者、居酒屋経営者、賭博業者など——の代理就任を防止しようとつとめた。参事会の介入は1710年までつづき、代理の治安官につ いての記録がのこされた47

 1693年から1710年にかけて、参事会会議は262件の事例で196名の代理の治安官を認可した。このうち、1693〜98年の68名をビーティは 同定している。課税評価額では、代理の8割が年額20ポンド以下である。ファリンドン内区とファリンドン外区で選出された治安官の6割、コーンヒル区のそ れの25パーセントがこの層であり、したがって、代理の層はこれら3区において選出された治安官の下層部分に相当したといえる。また、複数回の代理をした 者は、最下層とはいえ課税評価をうける傾向がある48。定期的に代理をつとめることで、一定度のローカルな評価を獲得するとともに、それが生計を構成する一つの要素となっていたと考えられるであろう。代理は治安官に選出された者よりも貧困であったが、極貧でもなかった。

 1720年代末になると、シティ全体で毎年、ほぼ100名の代理の治安官がいた。コーンヒル区では、1720年代に街区または教区で指名された男の90 パーセント以上が代理を雇用した。代理制の蔓延は、治安官にたいする否定的な認知を増加させたであろう。しかし、もう一方で、その職を生業、生計をなす手 段、もしくは、すくなくとも生計の構成要素の一つとみなす治安官が登場したことの意味も大きい。ビーティによれば、ブレド・ストリート、コウルマン・スト リート(Coleman Street)、コーンヒル、タウア(Tower)の4区において、1721年から37年にかけて、代理の治安官をつとめた93名の3分の2(62名)が 複数年の勤務を経験している。さらに、市長の訴訟職務記録(Charge Book)からは、1730年に148名の治安官——シティ全体の治安官の3分の2弱——が容疑者を市長の前に連行し、うち33名が4回以上、そのうちの 8名は10回以上であった。そして、その全員が代理の治安官であり、その職の経験が複数回におよんでいた49。治安官としての職務に給与をうけ、それを生計(の一部)とし、かつその職務を積極的・能動的に遂行する。さらには、複数回の勤務経験をつむことで能率があがる。ビーティのあきらかにした事実は、このようにまとめられるであろう。

 さらに、18世紀後半には、オールド・ベイリへの同行(1日各5シルで2名)、タイバン処刑場への同行と警備にたいして、治安官に給与が支払われた。ま た、1782年に処刑場がニューゲト監獄に移動すると、群衆のとりしまりのために臨時雇用の治安官(extra)がつかわれた。いずれも、シティ執行官 (City Marshal)の権限であり、区は無関係であった50。 これは、特定の目的のために給与をうけ、専門的な経験を活用して職務にあたる治安官である。1829年の首都警察や1750年代のボウ街警ら団よりはや く、シティでは実質的に治安官の専門職化が進行していた、と理解してよいのではないか。それは、1690年代後半の犯罪件数の増加からはじまった対症療法 的な改革の帰結であった。

 3.恩赦嘆願状のなかの治安官
 連合王国の公文書館の分類シリーズSP(State Papers)には、18世紀の恩赦嘆願状が所蔵されていることは前稿で述べた51。現時点で1703年から20年までの167通の書状を検討したが、そのうち、治安官が登場するのは、わずかに3件4通である。したがって、以下で紹介することは印象主義的との批判をまぬがれないのは十分に承知している。

 まず、1703年(日付は不明)の書状は、ニューゲト監獄収監中の死刑囚トマス・クック(Thomas Cooke)からのもので、その罪状はメイフェアでの治安官ジョン・カウパ(John Cowper)の殺害である。しかし、そのときにクックは、剣もナイフも所持しておらず、真犯人は赦免されて軍隊におくられ、オランダにいるウィリアム・バーネト(William Burnett)であると、数名による宣誓供述書を付してうったえた。具体的には、刑の執行停止をもとめ、国王が「前述のウィリアム・バーネトをイングランドにつれもどすようにお命じになるのであれば、請願者の友人がすすんでひきうけましょう」と提案している52

 注意したいのは、宣誓証言者が「くだんの騒擾をたまたま見ており、そこで、ウィリアム・バーネト某が……前述の治安官に致命傷を負わせるのも目撃した」 とのくだりである。「くだんの騒擾」が何を意味するのかは1枚の書状からは不明であるが、治安維持活動の一つであった群衆のとりしまりの危険度が想像され る。ちなみに、メイフェアはシティの治安官の管轄ではなかったから、クックはウェストミンスタの治安官であったのかもしれない。

 これにたいして、アン女王時代としか時期を特定できないが、25歳のティモシ・ダン(Timothy Dunn)死刑囚の手紙は、治安官の怠慢を指摘する。かれの事件はやや複雑である。某スマート氏(Mr Smart)がスン・ジェイムズ公園で売春婦とおぼしき女と親しくなったが、女が銀時計を盗んだので、スマートはかの女をつかまえた。公園にいたダンは、 女が虐待されていると誤解して助けにはいり、女は逃げた。この女も、時計を故買した兵士も、のちにつかまり、治安官の前で窃盗と売却をみとめる発言をし た。しかし、治安官が治安判事への報告をおこたり、女も兵士も一時的にブライドウェルなどに収監されたものの、釈放された結果、ダンがこの違法行為で犯罪 訴追される唯一の人物となってしまった。オールド・ベイリでの裁判では、治安官が女と兵士の自白を言明し、被告人の性格証言を複数の信頼できる人物がおこ なったのにもかかわらず、死刑判決をうけた53

 軽窃盗であれば、オールド・ベイリに送付することなく、ブライドウェルに送られるのがふつうであった54。 しかし、銀時計はおそらく1シル以上の価額であろうし、重窃盗(grand larceny)ないし強盗(robbery)が相当する状況である。治安官の落ち度、あるいは職務にかんする知識不足を指摘できよう。ただし、興味深い 事実として、1716年5月17日にオールド・ベイリで、窃盗、辻強盗、家宅侵入、殺人の罪を問われた5名の裁判が開催され、同姓同名のティモシ・ダンが 共犯者として証言した55。もしも二人のダンが同一人物であったなら、どのような事情を想定できるであろうか。

 3件目の囚人の氏名はジョン・トリパク(John Trippuck)といい、近衛歩兵第一連隊の兵士であり、脱走兵の発見と確保を職務としていた。ミドルセクス州の治安判事が主宰したヒクス・ホール (Hicks Hall in Clerkenwell)の裁判での証言(1717年9月26日)と、母親の嘆願状とはまったく対照的である。前者によれば、トリパクは、治安判事の命令 をうけて不穏な家屋を調査にあたった治安官と2,3名の助手にたいし、剣を腕のところに紐でゆわえ、ピストル2丁を手にして階上の部屋からあらわれ、「殺 すぞ」と脅しをかけた。治安官が命令書をみせながら近づくと、トリパクが発砲した。銃弾は助手の一人の腹部に命中したが、結果的に一命はとりとめた。トリ パクはまったく良心の呵責をしめすこともなく、判事にたいしてさえ、「殺してやればよかった」と言明した56

 一方、母親の書状は、恩赦嘆願状の定番ともいえる構成をとっており、近衛歩兵第一連隊で「おおきな危険に身をさらしながら」勤勉につとめたこと、事件も 職務の遂行中に突然あらわれた者たちに狼狽し、押しとどめようとして引き金をひいたこと(すなわち、あくまで過失)、ヒクス・ホールでは助言をうけて罪を みとめたこと、助手はつぎの日に仕事ができる状態にあったこと(すなわち、軽傷)、治安官とは何回か交渉をもったが、すべて断られたこと(すなわち、改悛 の表明)が記されている57。これも治安官の職務遂行時の危険をしめす事件であるが、「かれこそが脱走兵と思われる」トリパクにたいして、治安官はどちらの史料でも退いていない。


 ポリスの現場を担った治安官を研究するのに、シェイクスピアの『から騒ぎ』や『尺には尺を』、ウォード『ロンドン・スパイ』などの文学作品、19世紀の 改革者の手による議会史料を読むか、裁判記録とその関連文書を読むかによって、印象が180度の転換をしてしまう。1829年の革新性を相対化し、 1750・60年代からはじまる年代配列を、およそ50年前にもってきた研究動向を見ると、後者の史料を重視すべきであろう。わたしとしては、J・ビー ティがローカルな史料を丹念にたどりながらあきらかにしてくれた治安官を念頭において、恩赦嘆願状の読解をつづけたい。


1 Cf. 近藤和彦『文明の表象 英国』(山川出版社、1998年)、pp. 140-141; Donna T. Andrew, Philanthropy and Police: London Charity in the Eighteenth Century (Princeton, NJ: Princeton Univ. Press, 1989), pp. 6-7.近世都市のルネサンスと呼ばれる現象も、このなかにふくめてよいであろう。Peter Borsay, The English Urban Renaissance: Culture and Society in the Provincial Town, 1660-1770 (Oxford: Clarendon Press, 1989). なお、Samuel Johnson, A Dictionary of the English Language (London, 1755) には、「都市または国のとりしまりと統治で、住民にかかわるもの」とある。

2 林田敏子「マリン・ポリスと港湾労働者の世界——ロンドン港における1798年暴動を手がかりに」『史林』84巻6号(2001年); Clive Emsley, Policing and its Context 1750-1870 (Oxford: OUP, 1983), pp. 49-50; do., The English Police: A Political and Social History (London: Longman, 1991), pp. 19-21.

3 Ruth Paley, Thief-takers in London in the age of the MacDaniel Gang, c. 1745-1754, in Douglas Hay & Francis Snyder (eds.), Policing and Prosecution in Britain 1750-1850 (Oxford: Clarendon Press, 1989); Elaine A. Reynolds, Before the Bobbies: The Night Watch and Police Reform in Metropolitan London, 1720-1830 (Stanford: Stanford Univ. Press, 1998) など。

4 栗原眞人「1730年代のオールド・ベイリ(3)」『香川法学』19巻2号(1999年)、pp. 27-40; John Styles, Sir John Fielding and the problem of criminal investigation in eighteenth-century England, Transactions of the Royal Historical Society, 5th series, 33 (1983), pp. 127-50; do., Print and policing: Crime advertising in eighteenth-century provincial England, in D. Hay and F. Snyder (eds.), Policing and Prosecution in Britain, pp. 55-111.

5 John Beattie, Policing and Punishment in London 1660-1750: Urban Crime and the Limit of Terror (Oxford: OUP, 2001).

6 Oxford English Dictionary の当該項目を参照。

7 朝治啓三「1264年の治安官」村岡健次・鈴木利章・川北稔(編)『ジェントルマン・その周辺とイギリス近代』(ミネルヴァ書房、1987年)、pp. 2-14 を参照。

8 Joan Kent, The English Village Constable 1580-1642: A Social and Administrative Study (Oxford: Clarendon Press, 1986), pp. 16-18.

9 今井宏(編)『世界歴史大系イギリス史2——近世』(山川出版社、1990)、pp.95-100, とくに、「補説7 治安官の悩み」も参照。

10 Cynthia B. Herrup, The Common Peace: Participation and the Criminal Law in Seventeenth-Century England (Cambridge: CUP, 1987), pp. 69, 70-85.

11 有名なものは、R[obert] G[ardiner], The Compleat Constable, Directing Constables, Headboroughs, Tithingmen, Churchwardens, Overseers of the Poor, Surveyors of the Highways and Scavengers in the duty of their several offices...(1692; 7th edn., 1725); [J. P. Gent], A new guide for Constables, Headboroughs, Tything-men, Churchwardens... (1692), など。

12 Joan R. Kent, 'Folk justice' and royal justice in early seventeenth-century England: A charivari in the Midlands, Midland History, viii, 1983; 近藤和彦『民のモラル——近世イギリスの文化と社会』(山川出版社、1993)、pp. 43-44.Cf. Keith Wrightson, Two concept of order: Justices, constables and jurymen in seventeenth-century England, in John Brewer & John Styles (eds.), An Ungovernable People: The English and their Law in the Seventeenth and Eighteenth Centuries (London: Hutchinson, 1980).

13 区名や区内の教区についての簡便な手引きは、Cliff Webb, Streets, Parishes and Wards of the City of London (West Surrey Family History Society, 1991).

14 栗原「1730年代のオールド・ベイリ(3)」、p. 24.治安判事法廷(四季法廷)と巡回法廷とが日程的に継ぎ目なく一体となっている点が、ほかの地方に見られないシティの特徴であった。

15 以下は、J. Beattie, Policing and Punishment in London, pp. 81-3.

16 佐藤清隆「近世前期ロンドンの『秩序』と『無秩序』」イギリス都市・農村共同体研究会編『巨大都市ロンドンの勃興』(刀水書房、1999年)、pp. 77-87 に、騒擾とそれへの対応の具体例がある。

17 William Hogarth, Industry and Idleness (1747), plate 11: The Idle 'Prentice executed at Tyburn を参照。前景右端に菓子売りの懐中をねらう子どもが描かれている。

18 モラル・リフォーム運動について、坂下史「国家・中間層・モラル——名誉革命体制成立期のモラル・リフォーム運動から」『思想』879号(1997年)、pp. 140-165. 違法行為のとりしまりとの関係では、Robert B. Shoemaker, Prosecution and Punishment: Petty Crime and the Law in London and Rural Middlesex, c. 1660-1725 (Cambridge: CUP, 1991). また、18世紀後半の運動について、Joanna Innes, Politics and morals: The reformation of manners movement in later eighteenth-century England, in Eckhart Hellmuth (ed.), The Transformation of Political Culture: England and Germany in the Late Eighteenth Century (Oxford: OUP, 1990).

19 叫喚追跡の実態について、J. Styles, Print and policing, p. 56; 栗田和典「ヒュー・アンド・クライ」『歴史学事典9:法と秩序』(弘文堂、2002年)。

20 Gerald Howson, Thief-Taker General: Jonathan Wild and the Emergence of Crime and Corruption as a Way of Life in Eighteenth-Century England (New Brunswick: Transaction Books, 1970); R. Paley, Thief-takers in London in the age of the MacDaniel Gang.

21 Saunders Welch, Observations on the Office of Constable (1754), p. 1, cited in J. Beattie, 
Policing and Punishment in London, p. 132.

22 以下は、J. Beattie, 
Policing and Punishment in London, pp. 120-34.

23 ネッド・ウォード/渡邊孔二訳『ロンドン・スパイ——都市住民の生活探訪』(法政大学出版局、2000年)、pp. 147-8.

24 C. B. Herrup, The Common Peace, p. 70.

25 栗原「1730年代のオールド・ベイリ(3)」、pp. 5-6.

26 J. Kent, The English Village Constable, pp. 57-8.

27 J. Kent, The English Village Constable, pp. 59-61.

28 K. Wrightson, Two concept of order, pp. 37-8.

29 J. Kent, The English Village Constable, pp. 68-72, 78-9.

30 J. Kent, The English Village Constable, pp.61-2.

31 J. Beattie, 
Policing and Punishment in London, pp. 89-90.

32 J. Beattie, 
Policing and Punishment in London, p. 116 table 3.1.

33 Cited in J. Beattie, 
Policing and Punishment in London, p. 117.

34 http://www.ibiblio.org/gutenberg/etext00/0ws2210.txt を参照。

35 ウォード/渡邊訳『ロンドン・スパイ』、pp. 360-6.

36 Public Record Office [hereafter PRO], ASSI 35/55/7/5, cited in Herrup, The Common Peace, p. 69 note 4.

37 Cynthia Brilliant Herrup, The Common Peace: Legal Structure and Legal Substance in East Sussex 1592-1640 (Ph.D.
Diss., Northwestern University, 1982), pp. 457-65.

38 付加税の評価をうける基準は300ポンドである。人頭税の等級は3段階あり、300ポンド以下は一人あたり1シルを年4回、300ポンド以上の小売店主、 国内商人、職人は10シルを付加、海外貿易商、法曹関係者、ジェントルマンは1ポンドを付加した。後2者の区分は財産評価でなく、職業・地位であった。

39 J. Beattie, 
Policing and Punishment in London, pp. 136-7.

40 John Beattie, London juries in the 1690s, in James Cockburn & Thomas Green (eds.), Twelve Good Men and True: The Criminal Trial in England, 1200-1800 (Princeton: Princeton Univ. Press, 1988), pp. 231-4.

41 都市統治の研究動向について、坂下史「イギリス近世都市史研究に関する覚え書き——ケンブリッジ都市史・長い18世紀・日本における研究」『年報都市史研究』8号(2000年)、pp. 114-116.

42 J. Beattie, 
Policing and Punishment in London, pp. 139-40.

43 John Beattie, Crime and the Courts in England 1660-1800 (Oxford: Clarendon Press, 1986), pp. 52, 54-55; Peter King, Crime, Justice, and Discretion in England 1740-1820 (Oxford: Oxford University Press, 2000), pp. 47-9. もちろん、金銭の報酬をインセンティヴとしたやり方は、害意ある訴訟を誘発する、と同時代人からもはげしく非難された。

44 林田敏子『イギリス近代警察の誕生』、pp. 22-26.〔 〕の補足は、栗田による。

45 David Philips, 'A New Engine of Power and Authority': The institutionalization of law-enforcement in England 1780-1830, in Vic. A. C. Gatrell et al. (eds.), Crime and Law: The Social History of Crime in Western Europe since 1500 (London: Europa, 1980), pp. 160-1.

46 J. Beattie, 
Policing and Punishment in London, pp. 134-6. 支払われた罰金は、区の歳入となり、貧民対策費などにあてられた。したがって、相対的に貧困な区では、指名しても辞退が確実な人物を選出することがあった。

47 J. Beattie, 
Policing and Punishment in London, pp. 141-44.

48 J. Beattie, 
Policing and Punishment in London, pp. 145-6.

49 J. Beattie, 
Policing and Punishment in London, pp. 147-8, 150-53.

50 J. Beattie, 
Policing and Punishment in London, pp. 154-56.

51 栗田和典「国王恩赦嘆願状の可能性を読む——社会的な役割、ミクロ・ストーリア、そして相互参照性」『ことばと文
化』第5号(2002年)


52 PRO, SP 34/3/9, fol. 11.

53 PRO, SP 34/38/13, fol. 21.

54 J. Beattie, 
Policing and Punishment in London, pp. 24-31.

55 http://hri.shef.ac.uk/db/bailey/gtrial.jsp?id=t17160517-41&s_hil=dunn+timothy&orig=n#hil を参照。

56 PRO, SP 35/9/177 (1).

57 PRO, SP 35/9/177.

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