うまれをこえて――ジョージア州創設者オゥグルソープの博愛主義と奴隷制――

歴史学は精巧なタイム・マシンをつくりあげる営みだといわれることがある。過去をおとずれることは姿見にうつしだすように、現在を相対化し、省みることを可能にする。以下では、18世紀に生きた一人の人物に焦点をあてる。人の営みに問いかけることで、わたしたちも歴史的にある特殊な関係を生きていることを省察できれば、と思う。

なお、「国際(international)」ということばは、19世紀後半にナショナリズムが登場してはじめて、現在のように複数の国民国家間の関係を意味するようになった。それ以前の時代をあつかう小論では、語源のラテン語 internatio をいかし、「うまれを異にする者たちの関係」としておきたい。

1. ジャコバイトのオゥグルソープ

ジェイムズ・エドワード・オゥグルソープは1696年12月22日にロンドンでうまれた。その名「ジェイムズ・エドワード」は、1688/89年の名誉革命でイギリスをおわれたステューアト朝ジェイムズ2世の息子で、亡命先フランスの援助をうけて王位奪還をねらった「老王位僭称者」とおなじである。

オゥグルソープ家は熱烈な亡命ステューアト家支持派=ジャコバイトであった。陸軍准将の父サ・シオフィラスはウィリアム3世にたいする臣従をこばみ、1692年、投獄された。4人の姉妹はサン・ジェルマンにあったステューアト亡命宮廷でそだてられた。長兄は家産を継承したが、1717年前後に故国をさって亡命宮廷に伺候した。ジェイムズ・エドワードも、陸軍大尉の地位を1715年のジャコバイト叛乱のさなかに辞して海外に出立し、18年ウルビーノの老王位僭称者のもとへ参上した。同年末にイングランドへもどり、22年にサリ州ハズルミアから庶民院議員に選出された。23年4月の最初の議会演説は、ロチェスタ主教アタベリ国外追放法案への反対であった。アタベリは老王位僭称者と連絡をとり、あらたな叛乱計画を練ったことが発覚して逮捕されていた。この演説によってオゥグルソープもジャコバイトのラベルを貼られた。

いわゆる産業革命前夜のイングランドにおいて横溢していたのは、企業家精神ではなく、じつはホウィグ+イングランド国教会低教会派+プロテスタント非国教徒 対 トーリ+ジャコバイト+イングランド国教会高教会派+カトリックという党派・宗派の精神であった。1714年8月、ハノーヴァ朝ジョージの即位のあと、庶民院で多数をしめたのはウォルポウル、ペラム兄弟などに代表されるホウィグであった。たしかにホウィグのなかにも反ウォルポウル派が存在し、トーリとの連携のもとで野党勢力を形成していた。しかしながら、トーリ・ジャコバイトであるとみられた26歳の若きオゥグルソープ議員に政治家としての前途はくらかった。

オゥグルソープは自分の仕事を議会外に見いだした。1729年2月、オゥグルソープは100名あまりからなる庶民院委員会(通称:監獄委員会)の委員長として首都の債務者監獄の調査を行なった。監獄では、食物があたえられず、拷問が行なわれ、衛生設備がないために監獄熱が猖獗をきわめていた。

だが、この博愛主義的な監獄委員会もまた、党派・宗派対立にまきこまれた。委員会の活動的なメンバーはオゥグルソープをはじめとするトーリやホウィグ・反ウォルポウル派であった。翌年に再任された委員会は、前年に罷免され裁判にかけられた監獄役人がウォルポウルにつらなる人脈を利用して罪をまぬがれたとの嫌疑から内密の調査を行なうが、その調査じたいが党派・宗派対立にまきこまれ頓挫してしまった。議会人オゥグルソープは、彼の家系、うまれ、natio になかば翻弄されたのである。

2. ジョージア植民計画

債務者監獄を調査したことで貧困の実態にふれたオゥグルソープは、植民地建設こそが貧しい人びとを救済するもっとも現実的な手段であると考えるようになった。1732年6月、彼は19名の同志とともに、ジョージア植民のための国王認許状を獲得した。「ジョージア植民信託団」の結成であった。白人植民者120名余とオゥグルソープは11月、イングランドを出帆した。

ジョージア建設は、イングランド本国の負担となる貧しい人びとを北アメリカ植民地の南部フロンティアに移住させ、労働体験をつうじて有為かつ有徳の市民として再生させることを目的とした。みずから労働する以上、すでに西インド諸島やアメリカ南部植民地でひろく行なわれていた黒人奴隷制度は排除されなければならなかった。しかし1735年、ジョージアにおける奴隷制禁止法案の審議で信託団が議会に主張した理由は、南部フロンティアがフロリダを有するスペインの軍事的な脅威にそなえて白人だけのコンパクトな定住形態をとっていること、砂糖やタバコではなく小規模な地中海タイプの農業(米作)を行なっていることの2点であった。奴隷貿易商や植民地プランタの利害を代表する議員たちを説得するためだったとはいえ、とくに理由の第一点には、この時代の博愛主義的な企画に共通した特徴がうかがわれる。時代的はジョージア植民と前後するが、二つの企画からその特徴を指摘したい。

近世イングランドで「捨て子」は母親の性的な逸脱の結果とみなされ、きびしいあつかいをうけた。「無垢の子どもたちは街頭にうち捨てられ」「貧民の子どもはしばしば出生時に殺されたり、街路に遺棄されたり」した。「こうした気の毒な孤児を育て……イギリス王国の有益なメンバーたらしめるために……嬰児のための収容施設を設立」したのが、コーラムであり、その協力者がハンウェイであった。

彼らの事業「ロンドン捨て子収容所」は、1739年10月に国王認許状をうけ、41年3月にまず30人、年内に136人を収容した。1756年5月、議会がはじめて補助金1万ポンドを認可、収容所は生後2ヶ月をこえない嬰児全員をうけいれはじめた。翌57年、議会の補助金は3万ポンドにあげられ、うけいれ年齢制限もやがて12ヶ月未満まで拡大された。56年5月から議会の補助金がうち切られた71年までの収容数は、約3万人にのぼった。

捨て子収容所の活動が議会の補助金をうけて上昇しはじめた時期は、ちょうど七年戦争期(1756~63年)にあたる。それは、捨て子を放置すれば、「つぎの戦争がおこったとき、本来なら海軍や陸軍を構成しているはずの大量の人間が、教会の庭で……眠ることになってしまう」という危機感からであった。ここには、彼らの博愛主義の特徴が明白である。捨て子収容所には、大英帝国の形成、維持のための兵士を養成するという、あまりに現実的な目的意識が存在していた。

しかし、嬰児が兵士となるには10年単位の時間がかかり、現下の戦争には役立たなかった。より速効性のある策としてハンウェイのうちだしたのが、ロンドンの浮浪児をあつめて衣服をあたえ、海軍におくりこむ計画であった。1757年6月、ロンドンの商人層を中心に「海洋協会」が出発した。七年戦争期だけで4,787名の浮浪児をあつめ、5,452人の成人新兵に衣服を供給した。ナポレオン戦争の終結した1815年ころまでには、協会が供給した海軍兵士の総数は5万人をこえた。

ロンドン捨て子収容所と海洋協会に共通するのは、一方で社会問題の解決をはかりつつ、他方では、生産力や海軍力の増強をめざすという発想、マンパワー確保という側面である。これらを「重商主義的博愛主義」と一括するなら、ジョージア植民もまたそこにふくまれる。1720~21年の「南海泡沫事件」いらいの懸案であった債務者をひきつれ、北アメリカ植民地の南部フロンティアに植民(棄民)して軍事的な拠点をつくる企画は、すべての社会問題を「植民地に流して」処理し、あわよくば「帝国の拡大、維持」に役立てようとさえする思考そのものであった。

ジョージア計画は党派・宗派とは無関係でありうるこころみであった。その意味ではこの博愛主義は natio をこえた「連帯」であった。しかし、まだそこには白人という人種、イングランドという母国にたいする関心しかなかったこともたしかである。

3. オゥグルソープと黒人奴隷制

オゥグルソープじしん、ジョージア植民計画の以前は、奴隷貿易を否定してはいなかった。彼はジョージア計画の直前、1732年1月には「アフリカ・カンパニ」の副総裁に就任していた。同カンパニはアフリカで黒人を購入し、西インドや北アメリカに奴隷として売却する特権会社であった。

1733年夏、オゥグルソープはジョージアに北接するサウス・カロライナ植民地をおとずれた。誕生したばかりのジョージア(拠点:サヴァナ)への経済的・軍事的援助を確保するためであった。はじめて植民地の奴隷社会を観察する機会をえた彼が憤慨したのは、黒人奴隷の苦境よりもプランタの態度であった。彼らは自分たちの米作地をジョージアにまでひろげ、そこに奴隷制をもちこもうと意図していた。そのために、オゥグルソープを買収しようとさえした。さらには、みずからは労働せず、奢侈にはしり怠惰にふけるプランタの姿は、徳をうしなった市民そのものにみえた。

サヴァナにもどると、オゥグルソープという重石が一時的にとれた植民者が、「たいへん反抗的で、労働や規律にたえられなくなっていた」。信託団の植民計画の理念がゆらいでいた。それをもたらしたのは、サウス・カロライナのプランタから初期的な援助としておくられた黒人奴隷であった。オゥグルソープは奴隷を送還し、本国の信託団に奴隷制禁止を明確にうちだすように書簡をおくった。その結果が先述の1735年の議会制定法であった。

この黒人奴隷問題は1739年に転機をむかえた。1737年に在地書記として派遣されたスティーヴンズの息子トーマスがオゥグルソープにたいする不満分子、つまり奴隷制容認をもとめる植民者と結託したのである。トーマスは、ジョージアが崩壊の瀬戸際にあると信託団や議会につたえ、オゥグルソープを断罪した。この危機を脱出する方策は黒人奴隷をジョージアに導入して生産力をあげる以外にない、と彼は結論づけた。

以後、トーマスの側も、オゥグルソープや他の信託団メンバーの側も、それぞれに議会に文書を発し、事態はプロパガンダ戦の様相を呈した。なかで注目したいのは、デアリエンに定住したスコットランド高地地方出身者が奴隷制導入に反対して1739年はじめに発した議会請願である。彼(女)らは、おそらくは1715年のジャコバイト叛乱以後に反逆者へくわえられた迫害か経済的な苦境のためにジョージア計画にくわわった集団であった。

デアリエンからの請願「われらじしん、あるいは子孫の利益に矛盾した行為」の重要性は、その奴隷制への反対理由にある。請願は信託団とは本質的に異なる観点、奴隷保有じたいの罪悪とアフリカ人の生得の権利とを強調していた。そして同時期、オゥグルソープも信託団にあてた書簡で、ジョージアに奴隷制が導入されたなら、「アフリカにいる数千の人びとに惨状をひきおこすであろうし、……いまそこで自由にくらしているあわれな人びとを永久に奴隷状態へとおとしめることになる」と語っていた(両者の観点の一致からデアリエン請願の匿名の起草者をオゥグルソープだとする研究者もいる)。

オゥグルソープは信託団のなかでただ一人、南部フロンティアにわたった。対スペイン戦争のためアメリカ先住民とも直接に交渉した。フロンティア=辺境=周縁の地に身をおき、本質的に異なる者と出会い、直接に社会的な弱者に接したことで、彼のなかに「異質だが対等(different but equal)」という思考がめばえたのではないだろうか。彼はこの時点で人種という natio をこえたのである。

おわりに

1742年にスペイン軍を撃破しジョージアの安全を確保したことは、皮肉にも信託団が奴隷制を排除する理由の一つを消失させた。1742年はまた議会補助金申請がはじめて却下された年であり、オゥグルソープは軍費調達のためにイングランドへの帰国を余儀なくされた。帰国した彼を待っていたのは、結婚(1743年)と二度目のジャコバイト叛乱(1745年)であった。軍命をうけてイングランド西北部に出撃した彼は、撤退してゆくジャコバイト軍を見逃したとして、軍法会議にかけられた。以後、1754年の総選挙で落選してから85年7月1日に死去するまで、エセクス州クラナム・ホールにあった所領で妻とともにひそやかにすごした。

じつは1996年のアトランタ五輪のマラソン・コースに彼の名を冠するオゥグルソープ大学があった。そのコースを走ってアフリカ黒人男女が優勝したという事実は運命的にも思え、また普遍的な権利を考えた彼のことを想起させた。いまのわたしたちは、さまざまなちがいをちがいとしてみとめたうえで、対等に結びあっているのだろうか。

史料・参考文献

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近藤和彦「宗派抗争の時代」『史学雑誌』97編3号(1988年)。

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