犯罪の社会史に向けて

わたしが今回の研究に関連して発表する予定のものは、

    1. 「徒弟シェパードの・死を前にしてのことば・」静岡県立大学国際関係学部(編)『ことば・文化・社会』(国際関係学双書17)1999年3月刊行予定

    2. 「慣習と議会制定法――1750年代イギリスにおける近世社会の飽和と変化」『歴史の理論と教育』(名古屋歴史科学研究会)第104号、1999年5月刊行予定

    3. 「書評:常松洋・南直人(編)『犯罪と日常――西洋近代における非合法行為』(昭和堂、1998)」『西洋史学』(日本西洋史学会)1999年3月刊行予定

の3編である。いずれにおいても、犯罪的行為(criminality)を議会制定法によって定義されるものではなく、「当事者にすれば当然の、少なくとも看過・黙認されてしかるべき権利であるにもかかわらず、当局や主流社会からは非合法的と見なされる行為」(1)ととらえ、合法・非合法の境界の曖昧さ、流動性に留意した。ある行為の意味を解釈する枠組みが文化であるとすれば、犯罪の研究からはすくなくとも二つの文化、当事者と権力当局それぞれが属し、担い手であった行為の参照系が析出されるはずである。以下では、その内容を略述し、若干の方法論的な議論を補足したい。

1. は国王暗殺を計画して逮捕され、絞首刑、八つ裂き刑に処せられた18歳の徒弟を、18世紀前半のイギリス社会のなかで解釈した実証研究である。これまでの研究で公開処刑一般は、一方で統治の正統性を宣明する「政治的儀礼」、他方で多くの人がその見物につどい、騒然とした興奮の空間をつくりだす「祝祭」の機会として解釈されてきた。したがって、処刑囚その人は一個の舞台装置にすぎないかのように、存在感は希薄であった。わたしがおこなったのは、裁判記録や処刑囚が最後の数日間に改悛をもとめて彼に接触した牧師とかわした会話を再構成し、籠絡されることを拒否した死刑囚に、死と生とを選択する主体性をみいだすことであった。結果として若き徒弟は、本来、体制に順応したことをしめすはずの・死を前にしてのことば・で、反体制的な言説を表明した人物として表象された。あくまでわずか一人の処刑囚をあつかったものにすぎないが、「政治的儀礼」とも「祝祭」ともひとことでは表現できない公開処刑を考察するための、今後のヒントとしたい。

2. は総説的である。1750年代のイギリスについては、たとえば、教会の礼拝堂の建築数が減少する、暦がユリウス暦から大陸のカトリック諸国とおなじグレゴリウス暦にきりかえられる、秘密婚(clandestine marriage)が禁止されて婚姻の形式が統一化される、ユダヤ人帰化法の制定などが指摘されてきた。しかし、1780年代から1830年代のいわゆる産業革命(資本主義世界の構造的変革)が重視されてきたため、1750年代のそれは変革の予兆でしかなかった。それを「(世俗)法の勝利」(2)と解釈しなおし、近世的なイギリス社会が頂点にたっした時代として呈示した。その中身は、教会法にたいする世俗法(議会制定法)の優位が確立したこと、ふるい時代に属する民衆の祝祭のリズムをきざんでいた暦を制定法によって廃止し、民衆の婚姻慣習を禁止することで、習俗習慣にたいする法の支配を確認すること、新規の企画もまた、まず法によることなどである。

3. は、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカの近代における非合法行為をあつかった論集の書評である。強調したことは、総体としては犯罪者、犯罪的行為に言及しながらも、論集の視点は基本的に規制する側におかれていること、それによって犯罪者の世界、あるいは民衆の世界のしたたかさ、しなやかさがうかびあがってこないことである。規制を軸にすえることで、当事者と中間権力、国家との関係性に着目するのは重要な接近方法ではあるが、歴史学が依拠する史料という面からみれば、規制関係の史料はアクセスしやすいということも事実である。1980年代の社会史研究が多様な史料、手稿史料(manuscript)を開拓してきた成果を考慮すれば、この論集には不満が大きかった。

記録による行為の再構成、法ないし国家権力、史料の開拓にわたしがこだわるのには理由がある。イギリス史では19世紀チャーティズムの研究者ガレス・ステドマン・ジョーンズが1980年代初頭に主張し(3)、とくに90年代にはいってから勢いをましたものに、「社会史の言語論的転回(linguistic turn of the social history)」、歴史学におとずれたポスト・モダンの波がある(4)。この流れを端的にいうなら、言語は特定の指示対象をもたず、ある政治的な言説が社会的実体(たとえば、階級やジェンダなど)の利害を直接的に表現するものとはとらえない考え方であり、言説ないし言語をそのテクストのなかだけで解釈すべきだとする主張である。したがって、その言説を誰が発したかは問題ではなく、その言説の構造だけが分析の対象とされるものである。こうした手法、主張は、チャーティズムに参加した人びとの社会層をあきらかにし、労働階級の運動としてとらえてきた研究史に一定の批判的なインパクトをもったし、そのほかの時代の研究においてもテクストじたいがもつ力を再認識させたが、しかし、現在では言語還元論となっているように思える。さらにいうなら、既存の公刊された史料のテクスト分析に終始し、たとえば運動の現場でかかげられたプラカードや私的な集会での演説、書簡やメモ書きのような私的な文書を発掘して分析する方向にはない。松村高夫はそれを「歴史学の自殺行為」(5)と断罪している。

とくに 1. の研究は、牧師があとで公刊されることを前提に会話体でのこした史料に多くを依拠している。さらに一定の政治的な傾向性をもった出版業者が定期的に刊行していた雑誌に収録されたものでもある。そこから徒弟の姿をうかびあがらせるにあたってもちいた方法は、牧師と出版業者にかんする集合的伝記的(prosopographical)な情報の収集、他の処刑囚をあつかった刊行史料やその研究史の追跡(同質の史料との比較)、質の異なる=公刊を前提にされていない私家文書とのすりあわせ、テクストのプロットがもつバイアスにたいする留意、であった。いずれも歴史学が史料批判として確立してきた方法である。一つだけあたらしく試みたのは、会話体の史料にある言説を、誰のものでもなく、処刑囚と牧師との文化的なせめぎあいの結果としてとらえようとしたことだった。これはあきらかに「言語論的転回」を意識して採用した方法ともいえる。

過去を全体としてあったがままに再構成することは不可能である。わたしとしては、今後も史料の限界性を意識しつつ(テクスト分析)、社会層の解明(実態分析)をおこなってゆきたい。可能なかぎりをつくして証拠を追求するのが歴史学の仕事であると信じるし、死せる者がのこした史料にたいする責任であると考えるからである(6)

(1)常松洋・南直人(編)『犯罪と日常――西洋近代における非合法行為』(昭和堂、1998)、i。

(2)Douglas Hay and Nicholas Rogers, Eighteenth-Century English Society: Shuttles and Swords (Oxford, 1997), 84-113.

(3)Gareth Steadman Jones, The language of Chartism, in James Epstein and Dorothy Thompson (eds.), The Chartist Experience: Studies in Working-Class Radicalism and Culture, 1830-1860 (London, 1982), 3-58.

(4)たとえば、「特集:歴史学とポストモダン」『思想』838号(1994年)、4~75ページ。

(5)松村高夫「社会史の言語論的アプローチをめぐって――ステドマン・ジョーンズ『チャーティズム再考』を再考する」『三田学会雑誌』86巻3号(1993年)、160~161ページ。

(6)ナタリ・Z・デイヴィス「ナタリ・デイヴィスの知的展開」『季刊iichiko』47号(1998年)、124~125ページ。

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