徒弟シェパードの「死を前にしてのことば」
はじめに
「わたしは全能の神のお許しと王位簒奪者の権力とによってここにつれてこられました。考えますに、わが合法なる君主のおもどりを容易ならしめ、内乱から延々とつづく荒廃を減らすため、王位簒奪者の専制は廃されるべきであります。
〔中略〕
全能の神よ、わが国につかえたいというわたしめの切なる願いをうけとめたまえ。この国を、その正当なる国王で あるジェイムズ3世を、祝福したまえ。神よ、かの王に即刻の復位、幸福なる子孫、栄光ある御代をおみとめたまえ。最後に神よ、無限の善をもって、永遠に祝 福された救世主イエスのために、わたしめを慈悲と永遠の安らぎにうけとめたまえ。」(1)〔傍点は栗田による。以下同様。〕
馬車塗装工の徒弟ジェイムズ・シェパード(James Shepheard)は、大逆罪のかどで処刑された。引用は彼の「死を前にしてのことば(last dying speech)」の一部である。大判ビラ1枚2段組の「ことば」の副題には、「1718年3月17日、タイバンで死刑にされた者である。本人から刑場で州奉行に手渡された」とある。
ヨーロッパでも日本でも、聖俗の犯罪者が公開で焚刑や斬首刑、絞首刑、八つ裂き刑、磔刑などに処せられたことは、よく知られている(2)。 「死を前にしてのことば」とは、近世イングランドにおける公開処刑のセレモニの一つで、刑場で死刑囚じしんが語った(とされた)辞世の弁であり、それが印 刷、販売された。以下では公開処刑を考える一つの事例研究として、このシェパードという人物をとりあげてみたい。なお行論中にあきらかになるが、「こと ば」はおそらく彼が書いたものではなく、またその内容はかなり異例のものである。
一 公開処刑をめぐる研究史と史料
18世紀イングランドの司法と刑罰のさまざまな局面で儀式がもつ政治的な意味を強調したのは、ウォーリク大学の共同研究『英国の処刑台』(1975)に収録されたD・ヘイの巻頭論文であった(3)。その要点は、17世紀末には50前後であった死刑を規定した議会制定法が19世紀はじめまでに約200に増加したのにもかかわらず(4)、死刑判決もその執行も減少したという謎をとくことであった。彼は実際の運用の場面にたちいり、キリストの「最後審判」を模した法廷での演劇的なしぐさ、処刑まぎわの劇的な恩赦の伝達、有産者や高位の者の時宜的な処刑といった演出、操作をあきらかにした(5)。 死刑の恐怖と制定法をわがものとしていた統治者の恩情とは融通無碍にくみあわされ、法のもとの平等、裁き=正義という観念を確認し、一方で有産者=統治階 層の権威を維持する機能をはたした。公開処刑は支配の正統性を宣明する「権力の儀礼」であり、極端にいうなら、その機会をいつでもつくりだせるように死刑 の規定がふやされたのである。
ロンドンのタイバンで処刑された死体は、内科医師会(Royal College of Physicians)と床屋外科医同業組合(Company of Barber-Surgeons)による公開の解剖実験に一部が供された。その結果、絞首台の下では、両団体の代理人たちと死刑囚の家族、知人とが死体争 奪戦を展開することになった。民衆は、蘇生の可能性やキリスト者として埋葬される権利、さらには死刑囚の身体にふれることによる瘰癧の快癒などを信じてい た(6)。死刑囚を解剖に処することは、学問上の利用にとどまらず、「当局が民間のタブーの最もデリケートな点を意図的に衝いて」(7)極刑の恐怖をたかめ、階級的なコントロールに利用したことも意味していた。
公開処刑をえがいた代表的な図像に、ホゥガース(William Hogarth, 1697-1764)の銅版画『勤勉と怠惰』(1747)第11図「怠惰な徒弟はタイバンで処刑される」がある。近藤和彦はその分析から、騒然たる群衆の ただなかで執行される権力の演劇を明示した。公開処刑の日は、「できるだけ多くの人びとが厳然たる権力の執行劇を目のあたりにし、法と権力を畏怖」させよ うとする配慮から、あらかじめ公示され、事実上の休日とされた。当局は一直線のヴェクトルをなして武装し、統治の正統性を執行しようと意図したが、しか し、「混乱、暴力、権勢への挑戦、ジンの飲酒が支配」する「タイバンの大市(祝祭)」につどった民衆は、その権力劇を騒然とたくましく、またしたたかにむ かえた。ここには、「たがいに別個の世界をなしていただけでなく、機会あるごとにむこうの世界を凝視し、牽制しあっていた二つの階級のあいだの互酬的なや りとり、演劇的な交渉」があった。この厳然たる死と権力の式典劇を執行するには、死刑囚の服従と観衆の側からの合意が、不可欠の要件であった(8)。
死刑囚の服従や観衆の合意について、二つの研究をあげておこう。J・シャープは、死刑囚の発した「絞首台の演説」をとりあげた(9)。 この「演説」は、処刑されるにいたった特定の犯罪の告白とそれにたいする処罰の認容、改悛の表明を内容とした。特定の犯罪については最後まで無罪を公言し ていた者もいたが、その大部分も処刑を自分が人生でおかしてきた数々の非行にたいする正当な報いとしてうけいれることを語っていた。「刑罰と裁きの合法 性」をみとめるこれらの「演説」は、全体としてその根源にある国家の法や国王への服従をうったえるしかけになっていた(10)。
シャープとは対照的に、群衆を公開処刑の「中心的な役者」として呈示し、群衆の合意、ないしは群衆によ る公開処刑の横領を重視したのが、T・ラーカである。恒常的な建物のないタイバンは国家の劇場たる刑場としては貧弱であった。実際の処刑では死刑囚にかな り勝手なふるまいがみとめられ、沈黙する者、シナリオから逸脱し、公然と反抗しようとする者もかなりおり、国家や教会にとって適切な態度を確保することは 困難であった。観衆も「彼(女)らのみていた見世物が痛みではなく、楽しみを提供したかのようであった」。こうしたシーンを群衆は、犯罪者の「グロテスク な身体」、群衆のもつ野生、転倒、祝祭性が支配し、最後に「愚か者の王」の処刑がおこなわれることで秩序が回復されるという、カーニヴァルの空間として理 解していた、とラーカはいう(11)。
シャープ、ラーカの議論はそれぞれに魅力的だが、しかし極端すぎる。また、ある種のイデオロギー的なコントロールの場としてみるにしても、既存秩序が一時的に転倒する祝祭の場と解釈するにしても、死刑囚=死にゆく者ひとりひとりについては、両者ともふかくは論及しない(12)。しょせんは処刑劇場の舞台装置の一つにすぎないかのようである。いったい、死刑囚の服従はどのように獲得された/されなかったのだろうか。その要因の獲得のされ方によって、国家のプロデュースした儀礼は何度も構築、構成しなおされたのではないだろうか(13)。わたしとしては、厳然たる死と権力の式典劇に、死にゆく者の主体性を考えてみたい。
死刑囚の服従の獲得という点で読みなおしてみると、『ニューゲイト監獄付牧師の談』〔以下、『牧師の談』と省略〕は興味ぶかい史料である。これはニューゲイト監獄付きの国教会牧師(the Ordinary of Newgate)が収監された死刑囚と対話をもとに作成した、犯罪者の伝記または自伝ともいうべきものである。ラインボーの調査によれば、女58名、男1,129名、計1,187名の死刑囚をあつかった237件の『牧師の談』が現存している(14)。 『牧師の談』の体裁や売価は変更があったが、その構成は18世紀をつうじてほぼ不変であった。全体として5節にわかれ、1)裁判、2)監獄付牧師の説教の 要約、3)死刑が宣告されるまでの犯罪者の人生と非行、4)その他の特記事項、5)処刑、の順に叙述された。ラインボーは、1) 2)と3)にある死刑囚の生地、年齢、労働の経験(職業)、おかした犯罪の順序については信用できるとしている(15)。
『牧師の談』をあつかう最大の問題/魅力の一つは、それが対話と語りという形式をとった出版物であった ことである。作成者である監獄付牧師の粉飾もあるだろう。読者の好み、数千部単位の『牧師の談』を営業とした印刷業者の意向もあった。そして何よりもそれ は、ニューゲイト監獄付牧師と個々の犯罪者のあいだの交渉からうみだされた産物である(16)。シェパードは監獄付牧師とどのような交渉をもったのだろうか。また、「死を前にしてのことば」をふくむ彼の死に方は、どのようにうけとめられたのだろうか。
二 シェパードの確定的な事実
小論でもちいたジェイムズ・シェパードの『牧師の談』は、『イギリス政治事情』第15巻に転載されたものである(17)。『イギリス政治事情』は、亡命ユグノーのボワイエ(Abel Boyer, 1667-1729)が1711年1月から定期刊行物として出版していた。ボワイエは、1708年にトーリ系の書店主ロゥパ(Abel Roper, 1665-1726)と決裂したあと、ホウィグ陣営との関係をふかめていた(18)。そうした傾向性のあることは、記憶しておきたい。
『牧師の談』と裁判記録とを照合しながら、シェパードについての情報をひきだしてみよう(19)。 処刑当時の年齢が18ないし19歳であったから、逆算して生年は1700年前後である。生地は、ロンドンのシティからテムズ川をわたったサザクの聖セイ ヴィアズ教区で、父トーマスは手袋製造工であった。5歳で父を亡くし、すくなくとも3年間、ラテン語学校にかよったソールズベリ(ウィルトシャ州)などで 教育をうけた。彼を扶養し教育をうけさせたのは、母メアリ方の伯(叔)父ヒンチマンという人物であった(そのヒンチマンの紹介によって、ビショプスゲイト 外教区デヴォンシャ街の馬車塗装工スコトの徒弟となったのが、1716年末である)【B. 114, 351-353, 358-361】。処刑を目撃したスコットランドの軍人オゥジルヴィ(John Ogilvie)は、マー伯(John Erskine, Earl of Mar, 1675-1732, ジャコバイト)にあてた書状で、「オクスフォド伯〔Robert Harley, 1661-1724, トーリ穏健派〕が彼〔シェパード〕の家族を知っていた。隣人の息子であった。彼はたいへんよく勉強をしていた」(20)と 書いている。シェパードのうけた教育が水準以上のものであったと推測される。そしてまた、彼はソールズベリ時代、1715年のジャコバイト叛乱で「王位僭 称者が成功するように願っていた」「学友との会話から、それ以後の行動原則をふきこまれ」、「何軒かの本屋の店先で何冊かの小冊子を読んで、自分の意見を 確固としたものとした」【B. 351-353, 358】。
シェパードがふきこまれた「原則」とは、ジャコバイト主義(Jacobitism)である。ジャコバイ ト(Jacobite)とは、ステューアト朝ジェイムズ2世(在 1685-88)、およびその子孫の復位をはかる人びとのことである。1685年、嫡子がなかった兄チャールズ2世(在位 1660-85)のあとをついだジェイムズ2世は、熱心なカトリックであることを公言しており、彼が73年に再婚した相手マリアもカトリックであった。そ の彼をプロテスタント国イギリスの君主としてふさわしくないと主張したのがホウィグであり、王権神授説にもとづく絶対服従をといたのがトーリであった。 1688年、ジェイムズが全国の国教会で国民のカトリック改宗をうながす説教を読みあげさせ、6月10日に生まれた男児ジェイムズ・エドワード (1688-1766)にカトリックの洗礼をほどこすにいたって、国教会の高位聖職者が反対の声をあげ、ホウィグ、トーリもともにジェイムズとその家系を 王位から排除することで一致した。11月5日、ジェイムズ2世の甥でプロテスタントのオランダ総督オラニエ公ウィレム(ウィリアム3世、在位 1689-1702)と、その妻でジェイムズ2世の先妃アンの長女メアリ(在位 1689-1694)を君主としてむかえ、いわゆる名誉革命がはじまった。権利章典(1689)と1701年6月の王位継承法によって、カトリックおよび カトリックと結婚した者はイギリス国王とみとめられない原則が確認され、王位継承はジェイムズ1世(在位 1603-25)の孫でハノーファ選帝公妃ソフィアの直系卑属に限定された。
しかしながら、フランスに亡命したジェイムズ2世の家系がすぐに消滅したわけではなく、1701年9月 にジェイムズ2世が死亡すると、ジェイムズ・エドワードはイギリス国王ジェイムズ3世として王位を僭称し、ルイ14世の援助をうけてイングランド侵攻を画 策した。この人物こそ、シェパードが「死を前にしてのことば」で「正当なる国王」とよんだ人物である。一方、ウィリアムとメアリのあいだには子がなく、つ いで即位したメアリの妹アン(在位 1702-14)の子は夭折していた。またアンは国教会の維持、振興のために財政的援助(「アン女王基金」)を行なったので、教会・聖職者・典礼の権威を 高くたもとうとする「高教会派(High Churchmen)」の勢いがました。その一部は、ウィリアムへの臣従をこばみ、名誉革命の原理と議会王政を否定した臣従拒誓者(non- jurors)であった。1714年8月のハノーファ選帝公ジョージ(ジョージ1世、在位 1714-27)の即位と翌年のジェイムズ・エドワードのイングランド侵攻を契機の一つとする叛乱の前後、ひろくいえば、18世紀前半のイギリス国家社会 に横溢し、政治文化の基調となっていたのは、以上のような経緯からきた宗派・党派の対立であった。それは、ホウィグとトーリ、高教会派と低教会派(Low Churchmen, 聖書にそくした信仰を重視し、カルヴァン派非国教徒と連携)、名誉革命とジャコバイトという対立するイディオムで表現され、ホウィグには低教会派とプロテ スタント非国教徒が、トーリには高教会派とジャコバイトの一部がかさなりあう構図を形成していた。また勢力を弱体化させていたカトリックもジャコバイトで あり、トーリ・高教会派側とちかい関係にあった(21)。
1714年の総選挙後、ハノーヴァ朝を支持するホウィグ優位のもとで議会政治は展開してゆく。だからこそ、統治の正統性を宣明する公開処刑で、「正当なる国王ジェイムズ3世」と記したシェパードの「死を前にしてのことば」は特異だといえるのである。
シェパードが処刑された犯罪的行為とは大逆罪(high treason)であった。これは、イングランドにうまれた臣民が国王にたいする忠誠をやぶる行為すべてを包含したが、彼のばあい、国王の殺害をくわだてたことである(22)。『イギリス政治事情』に転載された、1718年1月31日の『フライイン・ポゥスト』の記事と、3月6日にオールド・ベイリで開催された裁判記録の記事から事情を略述しよう(23)。
1718年1月24日(金)の夜、シェパードは臣従拒誓者リーク師の居宅へ1通の書状をもってあらわれ た。あいにくと本人が不在であったため、書状を家の女奉公人マーサ・ウェイルに託し、つぎの月曜日(1月27日)夜の再訪をつげてたちさった。書状の宛名 書きが「ヒース師」となっていたので、在宅していたリークの娘メアリも、帰宅してきたリーク本人も奇妙に思ったが、「近隣にヒース師という名の聖職者はい ないと考え」、開封した。一読したリークは娘と女奉公人に「よこしまで凶悪な書状だ」とつげ、読んで聞かせたあと、火にくべてしまった。書状の要点はつぎ のようなものであった。
「……わたしがご提案申しあげるのは、どなたかがイタリアにわたる費用を支払ってく ださり、同志の方々が若輩者のわたしに国王陛下〔ジェイムズ・エドワード、当時はイタリアのウルビーノにいた〕への招待状をあずけてくださらないかという ことです。そうしましたなら、王位簒奪者〔ジョージ1世〕があらわれたそのとき、宮殿にてあやつを討ち果たしましょう。この混乱のなか、もしも軍隊があつ められましたなら、国王陛下がおでましになればよいのですし、それができなければ、いっそうの好機到来まで陛下は御身をお隠しになればよいのです。……こ とがそのとおりにはこべば、わたしはきわめてむごたらしい死に方しても当然のことと思います」【B. 114-115, 345-346】。
いったんはこの国王暗殺趣意書というべき書状を燃やしたリークであったが、ワナではないかという不安にかられ、つぎの 日の朝、事情を区選出の市参事会員(治安判事をかねる)フライア(Sir John Fryer, 1720年にロンドン市長)に知らせた。フライアはシェパードの逮捕を命じた。予告どおり、月曜日にリーク宅を再訪したシェパードは、治安官によって逮捕 され、フライアのもとに連行され、とりしらべをうけた。彼は事実関係をすべてみとめ、書状の写しがないかたずねられると、彼らの面前で「記憶していたその 書状の写しをすぐに書きあげ」「すすんでそれに署名し」「たいへん沈着冷静に読みあげた」。また書状にある「国王陛下」がジェイムズ・エドワード、「王位 簒奪者」がジョージ1世をさすと明言した【B. 346-349】。
その後のとりしらべは、国務大臣サンダランド伯(Charles Spencer, 1674-1722, ホウィグ)の事務所で行なわれた。審問のあいだ、シェパードにはまったく動揺がみられなかった。フライアらは一様に、彼のおちつきに印象づけられている【B. 347, 349, 350, 351】。吏員3名がシェパードの親方スコト宅に派遣され、くだんの書状の草稿を発見した【B. 350-351】。書状はシェパードの自筆であった。
以上は検察側の証人の証言であるが、シェパード本人も裁判で「宣誓証言されたことを事実とみとめ」ている。陪審は「大逆罪にて有罪」と評決した。恩赦嘆願の有無をたずねられてシェパードは、「自分が君主とみとめない者から恩情をのぞむことはできない」と静かに答えた。
判決前文はまず、シェパードの若さ、ならびに罪の意識の不在におどろきをしめし、彼をして道をあやまら せた中傷文、説教、小冊子のたぐいを非難した。ついで、「不幸な若者」に自分のあやまちをさとることをもとめ、彼の考えが「国民の感覚とは反対である」と 断言した。「国王陛下とその後継者がプロテスタントであること、それは数多くの議会によって確認されてきた。国民はその幸福なる体制のよき効果を感じとっ ている」【B. 353-355】。
刑はつぎのようにさだめられた。ニューゲイト監獄から「簀子そりで刑場までひきたてられるべし。そこで 絞首せられるべし。生きたまま、綱を切りおとし、はらわたをひきずりだして焼くべし。生きたまま、斬首し、四肢をひき裂くべし。首と四肢は国王陛下が適切 とお考えになるあいだ、さらされるべし」【B. 356】。まさしく極刑であった。しかし、既出のオゥジルヴィの書状には、シェパードは「イングランドの生んだもっとも高貴なこころの持ち主で、天使のよ うに美しかった。わずか19歳だったが、彼以上に毅然とおちつきはらって苦しみに耐えた人はかつていなかった」と書かれている(24)。
三 死刑囚と牧師の攻防
裁判のあと、ジェイムズ・シェパードにかんする『牧師の談』が作成されたと考えられるのは、1718年3月6日(木) から19日(水)の期間である。当時のニューゲイト付き監獄牧師は、ロレイン師(Paul Lorraine, 在職 1700-19)であった【B. 370】。彼は、フランスの詩人ミュレ(1526-1585)の翻訳、その姓、フランス語を話せたという事情などから、ユグノー系の人物と推定される。ロ ンドン市参事会によって1700年末にニューゲイト監獄付牧師に任命されると、『牧師の談』の地位を公式の定期刊行物といわれるまでにたかめた。また自分 の説教や小冊子『死にゆく者の補佐』(1702)を公刊するなど、出版文化の創生期にふさわしい人物であった。デフォウ(Daniel Defoe, 1659?-1731)などの批判者に対抗し、『牧師の談』の客観性と社会的な有益性をうったえつづけてもいた(25)。
1718年当時のロレインの年齢は不詳だが、すでに監獄付牧師として20年ちかくをすごしてきた彼が、・若僧・ シェパードを容易におとせると考えたとしてもおかしくはない。しかし、先回りしていえば、シェパードはロレインの手中におちなかった。そればかりか、監獄 付牧師の義務であり権利である、死刑囚にたいする祈祷書の朗読、秘蹟の授与、処刑前日の最後の説教すら拒絶した【B. 368-369】(26)。たしかに、監獄付牧師をこばんだ死刑囚は、シェパードが最初ではなかった。それでも、恩赦の獲得や秘蹟の授与、生前の出版による利益(27)、あるいは彼(女)らの語りの守秘をとりひき材料にして、牧師は告白、改悛をひきだしてきた(28)。そうした手練手管を駆使するロレインと、若いシェパードとの攻防は、『牧師の段』の10段落、4,300語弱のなかにみてとれる。
第一段落で裁判の概略がのべられたあと、二人の議論はまず、国王ジョージの暗殺を「まさしく神からわた しの魂にとどいた指図であると信じています」とシェパードが語ったところからはじまった。ロレインはそれを「おまえを誘惑した悪魔の暗示」であり、また何 より十戒の第六は「汝、人を殺すべからず」(『出エジプト記』第20章第13節)としているのだから、神の法をも侵犯する「凶悪な犯罪」であると断じた。 彼の論断にたいしてシェパードが黙すると、「長い時間がおまえにはあった。自分の非道な考えの凶悪な本性について考える機会があったのではないか」と誘い 水をむけた。シェパードが「祈れば祈るほど、わたしは勇気づけられ、くわだての合法性を確信しました」と応じると、すかさず「もしそうであったなら、おま えはことを成就させていただろう。未遂でおわりはしなかったはずだ」と責めた【B. 358-360】。天命ならば失敗するはずはない、失敗は計略の非道をしめす最高のあかしなのだ、という結果論である。
シェパードは用心していたのだろうか、第二段落をみるかぎり、ロレインと二人きりのやりとりはない。ロレインの「内々におまえと話をする機会をくれないか」との申し出には、「あなたの議論が恐い。あなたに充分に答えられるほどの学者ではないから」と断りをいれた【B. 361】。これがシェパードの本音であったか、あるいは年長のロレインをかわすための・お愛想・であったかは不明である。が、実際、処刑の日まで彼のそばには「僧侶、イエズス会士、あるいは羊の皮をつけた狼」とロレインが評した人物がつきそっていた。オーム(Robert Orme)という臣従拒誓者であった【B. 365】。オームについては、1715年5月(ジャコバイト叛乱のさなか)にロンドンのオールダズゲイト街で約200名の臣従拒誓者の集会を開催したこと以外は不明だが(29)、ロレインはシェパードの「死を前にしたことば」の作者を彼だと断定している【B. 370】。
天命か悪魔の誘惑かという議論は第三段落でもくりかえされる。シェパードは多くを答えなかったが、処刑 を、ジョージ暗殺の陰謀が不法であったからではなく、「ほかで犯してきた罪」に帰そうとした。こうした論法は、シャープの議論にあった死刑囚の「演説」の 一パターンでもあった。しかしロレインは、「物事にさしたる経験もないおまえのような若者が……、自惚れと不遜のあまり、あやまちだと考えたことをただせ る、たださなければならないと思いこみ、命をかけなければならなかったのはなぜだ。奇妙で極悪非道なおまえの考えになぜ満足できるのだ」とつぎつぎと問い をあびせかけた【B. 362-364】。それでもなお、「正しかったと満足している」というシェパードに、ロレインは改悛しないで来世に旅立った者がこうむる永劫の苦しみを説 く【B. 365】。このように各段落では、ロレインのことばや聖書の引用が圧倒的に多い。だが、それがかえってロレインが空回りしているような印象をあたえてい る。
処刑前日までをえがく長い第四段落で、ロレインはオームという存在を利用して、シェパードを・あやまっ た主義主張にたぶらかされた若者・という鋳型に流しこんでゆくプロットをとった。そうすることで、ロレイン個人は善意の努力の人、処刑とその根源にある現 体制の正統性をうったえる正義の人として表象される。しかしそれはまた、シェパードを主義に殉じたとも解釈させる危険をはらんでいた。
「わたしは、彼〔シェパード〕と気脈をつうじ、彼をその悪しき原則のうちにかたくなにしている人物を発見した。それ以前は、悪しき原則はシェパード本人に特有のものと考えていたが、概して人は彼の心情のように盲目でも非道でもないものだ」【B. 365】。
以後の『談』は、改悛をせまる真摯な監獄付牧師ロレイン、それを妨害する悪漢オーム、そのためにすくわれないまま処刑される若きシェパードという配置で進行してゆく。
はじめてオームに出会ったさいにロレインは、彼が「イングランド国教会の牧師のなりをして」いたので、警戒せ ずに死刑囚の精神状態をたずねた。「たいへんよい状態にある」と答えたオームに、ロレインはよろこび、「あやまちをみとめたのだな」とシェパードに語りか けた。すると、「そこで控えよ! わたしが彼の聴罪牧師である。彼とわたしはおなじ宗派だが、おぬしはちがうぞ」とオームが叫んだ。仰天したロレインは、 「な、何だって! あなたは人が公正なる君主を裏切り、もっとものろわしきやり方で殺害することを合法とみなす宗派にいるのか? それを恥ずかしいことだ とは思わないのか?」とつめよった。
「囚人はおまえが彼にもとめることについて、おまえを満足させる義務はない。おまえは彼の適切なる牧師ではない し、おなじ宗派の者ではないからだ」とあしらうオームに業を煮やしたのか、「使徒はこう申しておられる。温順と恐れをもってわれらのなかにある希望の理由 を尋ねるあらゆる者に、われらはつねにすすんでこたえをあたえるべし、と」とロレインは聖書をもちいる得意のレトリックでやりこめ、「彼の良心を清めるた めの助言をしていない」オームにドアの外にでるよう、慇懃だが断固として命じた(30)。オームは不承不承ながら退室し(ただし、ドアはあけられたまま)、おそらくロレインとシェパードは最初で最後の二人きりの時間をもつことになった【B. 367-368】。
この場面でロレインがたずねた問いは、「国王を暗殺することを合法で、神の使命だという……意見に固執 しているか」、シェパードの意見が「危険で大いなるあやまちであると、おまえの聴罪牧師から教示されたか」、「いま、意見を撤回し改悛しているか」であっ た。シェパードは無言であった。なおもロレインは彼の祈祷をうけるようにもとめたが、「わたしじしんの宗派の人の祈祷だけをのぞんでいる」という返答しか なかった。ロレインはあきらめて部屋を退出し、かわってオームが「たいへん粗野で無分別な」態度を彼にしめしつつ、はいっていった。「法王教」にたぶらか されて悪しき原則に固執するシェパード、「国王ジョージとプロテスタントの信仰を支持する」ロレインを「盲目であやまった情熱にみちびかれて」敵視する オーム、にもかかわらず、「命をうしなう危険をおかして陛下と王家の人びとのために、真の福音のために」努力したロレインという役柄を確認して、第四段落 はとじられる【B. 368-369】。
第五・第六段落には処刑前々日(3月15日)の土曜日、ニューゲイト監獄にいるシェパードをひと目みようとする人びとの喧噪が書かれている【B. 369】。監獄をおとずれた人びとを特定することはできないし、処刑囚見物はありふれたことではあったけれど、シェパードの一件がロンドン民衆の注目をあつめ、話題になっていたと想像させる。3月16日には、第一大蔵卿スタナプ(James Stanhope, 1673-1721)が法務長官ノージ(Sir Edward Northey, 在職 1701-07, 1710-18)への手紙で、「数日来、ジェイムズ・シェパードの肖像画が販売され、陛下の名誉と奉仕に関心をもつ者はいたく感情を害されています。それが販売される店舗のまわりに人びとの尋常ならざる群がりをひきおこしています」(31)と懸念を表明、印刷物小売業者3名、指物師1名、メガネ製造工1名、彫刻師1名をとらえて尋問した。すくなくとも出版業界は、シェパードを売れるネタとみなしていた。
ニューゲイト監獄付牧師は、処刑当日、監獄からタイバン処刑場まで死刑囚につきそい、処刑をみとどける ことも職務であった。シェパードは「あきらかに改悛することなく死んでいった」。そうしたシェパードについて、ロレインは注記で「精神に異常があった。し たがって、死を判決するべきではなかった」とつけくわえた。しかし直後の第八段落では、シェパードが「死を前にしてのことば」を用意して仲間の囚人にみせ ていたこと、オームによって作成されたもう一つの「ことば」があり、それを印刷するよう望んでいたことが書かれている【B. 370】。シェパードを精神異常というのは、改悛させられなかったロレインの最後の言い訳という感が強い。
『牧師の談』をみるかぎり、シェパードの服従は獲得されなかった。それは、ロレインの記したような、 オームの介入だけによるものとは想定できない。自筆の書状にあったように、シェパードはあらかじめ死を覚悟していた。オームは助力したとしても、かたくな なうちの死をえらんだのはシェパードじしんであったと、わたしは推測する。そのため、おそらく「厳然たる死と権力の式典劇」はその意味を横領され、彼は ジャコバイトを鼓舞する「天使のように」死んだ(32)。ロレインは彼を「たぶらかされた若者」と表現し、ホウィグ陣営とちかしいボワイエは『牧師の談』のみならず、オームを非難したロレインにおくられた脅迫状までも『イギリス政治事情』に掲載したが【B. 438】、人びとはシェパードの「死を前にしてのことば」や肖像画をきそって購入した(33)。人びとの動機は、ジャコバイトへの支持、対象を限定しない反権力の姿勢、若者への同情、たんなる好奇心のいずれとも特定はできない。
おわりに
ジェイムズ・シェパードの生涯は書く/書かれることと関連していた(34)。 彼は相当な水準の教育をうけ、読み書きを知ることでジャコバイトとなった。第二に、いまの時点からみれば、「死を前にしてのことば」をはじめとしていくつ かの事実誤認をともなってはいたけれども、彼はいくつかの文書の作者と想定された。第三に、彼の人生全体が、ロレイン、オーム、そして・売れる・題材と考 えた出版業者の手によって書きあげられた作品でもあった。わたしたちは、おもに書かれたことばによってしか、過去の人の生にふれることができない。
シェパードの書状からジャコバイトとして死を覚悟していたことは諒解できよう。彼はいわば主体的に(生と)死を選択したとはいえないだろうか。彼の生の力、生きた軌跡があったからこそ(35)、 それぞれが彼を作品として書きあげることができたのではないか。たしかにシェパードの「ことば」は研究史のなかでとるにたらぬ例外なのかもしれない。しか し、大逆罪であれ、殺人者であれ、窃盗犯であれ、一個の生があってはじめて物語は書きあげられる。彼ら彼女らはたんなる処刑劇場の舞台装置ではけっしてな い。
註
(1)The Dying SPEECH of JAMES SHEPHARD; Who Suffer'd Death at TYBURN, March the 17th, 1717/18 Deliver'd by him to the Sheriff, at the Place of Execution (London, 1718). Public Record Office〔以下 PRO〕, SP 35/11, にも同一文書が収録されている。印刷の汚損などにより判読が困難な箇所を照合した。
(2)Michel Foucault, Surveiller et punir: naissance de la prison (Paris, 1975) trans. by Alan Sheridan (Harmondsworth, 1977), 3-6, 7〔田村訳『監獄の誕生——監視と処罰』(新潮社、1977年)、9-11、12-13〕, など。イングランドにおける公開処刑の廃止については、Valentine A. C. Gatrell, The Hanging Tree: Execution and the English People 1770-1868 (Oxford, 1994), 325-444, 589-611; Randall McGowen, Civilizing punishment: The end of the public execution in England, Journal of British Studies, xxxiii (1994), 257-282, を参照。
(3)Douglas Hay, Property, authority and the criminal law, in D. Hay et al., Albion's Fatal Tree: Crime and Society in Eighteenth-Century England (London, 1975), 17-64. 栗田和典「18世紀イギリス史の新展開——犯罪の社会史覚書き」『史学雑誌』99編9号(1990)、62〜79、も参照。
(4)Leon Radzinowicz, A History of English Criminal Law and its Administration from 1750, i (1948), 3-4. Cf. William Blackstone, Commentaries on the Laws of England, iv (1769), 18-19.
(5)James Swanston Cockburn, A History of English Assizes 1558-1714 (Cambridge, 1972), 65-9; R. McGowen, "He Bearth Not the Sword in Vain": Religion and the criminal law in eighteenth-century England, Eighteenth-Century Studies, xxi (1987/88), 192-211; do., The body and punishment in eighteenth-century England, Journal of Modern History, 59 (1987), 651-679, も参照。
(6)Peter Linebaugh, Tyburn riot against the surgeons, in Albion's Fatal Tree, esp. 69-88, 102-115.
(7)Edward Palmer Thompson, Folklore, anthropology, and social history, Indian Historical Review, iii (1977), 254-255〔近藤訳「民俗学・人類学・社会史」『思想』757号(1987)、135 〜136〕.訳文を一部変更。
(8)近藤和彦『民のモラル——近世イギリスの文化と社会』(山川出版社、1993)、249 〜263。
(9)James A. Sharpe, "Last Dying Speeches": Religion, ideology and public execution in seventeenth-century England, Past & Present, 107 (1985), 144-167. Last dying speech の訳し分けについては、さしあたり、村上直之『近代ジャーナリズムの誕生——犯罪報道の社会史から』(岩波書店、1995)、53、を参照。
(10)J. A. Sharpe, "Last Dying Speeches", 144, 150-157, 165-166.
(11)Thomas Walter Laquer, Crowds, carnival and the state in English executions, 1604-1868, in Augustus Leon Beier et al. (eds.), The First Modern Society: Essays in English History in Honour of Lawrence Stone (Cambridge, 1989), 305-355. ミハイル・バフチーン/川端訳『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』(せりか書房、1978);ピーター・ストリブラス、アーロ ン・ホワイト/本橋訳『境界侵犯——その詩学と政治学』(ありな書房、1995)、も参照。
(12)P. Linebaugh, The London Hanged: Crime and Civil Society in the Eighteenth Century (London, 1991), xvii-xviii; V. Gatrell, The Hanging Tree, 91, 95-97.
(13)Peter Lake and Michael Questier, Agency, appropriation and rhetoric under the gallows: Puritans, romanists and the state in early modern England, Past & Present, 153 (1996), 64-107, を参照。
(14)P. Linebaugh, The Ordinary of Newgate and his Accounts, in J. S. Cockburn (ed.), Crime in England 1550-1800 (Princeton, 1977), 247-248; do., The London Hanged, 91-92; 栗原眞人「1730年代のオールド・ベイリ(1)」『香川法学』18巻1号(1998)、147〜148。『牧師の談』の正式なタイトルは、The Ordinary of Newgate, His Account of the Behaviour, Confession, and Dying Words of the Malefactors who were Executed at Tyburn.
(15)P. Linebaugh, The Ordinary of Newgate and his Accounts, 260-268. Peter Earle, A City Full of People: Men and Women of London 1650-1750 (London, 1994), 19-54, も参照。
(16)『牧師の談』などの犯罪者の伝記をめぐっては、Lincoln B. Faller, Turned to Account: The Forms and Functions of Criminal Biography in Late Seventeenth- and Early Eighteenth-Century England (Cambridge, 1987), esp. 188, 194-195; Philip Rawlings, Drunks, Whores and Idle Apprentices: Criminal Biographies of the Eighteenth Century (London, 1992), 10-11; J. A. Sharpe, "Last Dying Speeches", 162; do., Crime in Early Modern England 1550~1750 (London, 1984), 161-167.
(17)Abel Boyer, The Political State of Great-Britain; being an Impartial Account of the Most Material Occurrences Ecclesiastical, Civil and Military: In a Monthly Letter to a Friend in Holland, xv (London, 1718), 356-370. 裁判記録も、344-356, に所収。
(18)ボワイエの略歴について、西川杉子「亡命ユグノーと名誉革命 体制の防衛——アベル・ボワイエ『アン女王の治世史』を中心として」『西洋史学』163号(1992)、18〜34、とくに24。また当時の宗教をめぐる 国際情勢について、同「プロテスタント国際主義から国民意識の自覚へ——1680年代〜1700年代のイングランド国教会をめぐって」『史学雑誌』105 編11号(1995)、1〜29。
(19)以下、註の煩雑をさけるために、註(17)の文献からの引用、注記は本文中のその直後に【B. *】として * に頁数をしめす。
(20)Historical Manuscript Commission: Calendar of the Stuart Papers, vi (London, 1916), 328.
(21)以上、18世紀前半の政治文化のあり方については、近藤『民 のモラル』、70〜82;同「1715年マンチェスタにおける『恐るべき群衆』」長谷川博隆(編)『ヨーロッパ——国家・中間権力・民衆』(名古屋大学出 版会、1985)、242〜245;同「宗派抗争の時代——1720,30年代のマンチェスタにおける対抗の構図」『史学雑誌』97編3号(1988)、 44。そのほか、松浦高嶺「〈名誉革命体制〉とフランス革命」柴田三千雄・成瀬治(編)『近代史における政治と思想』(山川出版社、1977);大久保桂 子「いまなぜジャコバイトなのか」『イギリス史研究』37号(1985);同「名誉革命体制とジャコバイト問題」『史学雑誌』94編12号(1985); D. Hay and Nicholas Rogers, Eighteenth-Century English Society: Shuttles and Swords (Oxford, 1997), 54-70, なども参照。
(22)大逆罪について、W. Blackstone, Commentaries, iv, ch. 6; Alan Wharam, Treason: Famous English Treason Trials (Stroud, 1995), xiii-xvii.
(23)オールド・ベイリでの裁判については、栗原、前掲論文、155〜171。
(24)HMS: Stuart, vi, 328.
(25)ロレインの履歴について、Dictionary of National Biography, xii (London, 1917), 140; P. Linebaugh, The ordinary of Newgate and his Accounts, 248-249; P. Rawlings, Drunks, Whores and Idle Apprentices, 5-6, など。彼は1712年、庶民院に『牧師の談』の有益性をうったえ、印紙税の免除を請願した。The CASE of Paul Lorrain, Ordinary of Newgate, Most humbly offer'd to the Honourable House of Commons (1712).
(26)一般に、悔悟しなかった死刑囚は同時代人から不埒な者とみなされ、非難された。J. A. Sharpe, "Last Dying Speech", 154-156. しかし、シェパードがそれにあてはまらないことは、HMC: Stuart, vi, 328, ですでに確認した。
(27)生前の出版は、おもにニューゲイト監獄収監にかかる諸々の手数料や葬儀の費用をまかなうためであった。監獄の手数料については同時代人の証言として、John Howard, The State of the Prisons in England and Wales... (Warrington, 1777). また、Wayne Joseph Sheehan, Finding solace in eighteenth-century Newgate, in J. S. Cockburn (ed.), Crime in England, esp. 230-231; 栗田和典「『統治しがたい』囚人たち——1720年代のロンドン・フリート債務者監獄」『史学雑誌』105編8号(1995)、49〜50、を参照。
(28)P. Linebaugh, The ordinary of Newgate and his Accounts, 259-260.
(29)Paul Kleber Monod, Jacobitism and the English People, 1688-1788 (Cambridge, 1989), 143.
(30)原文では、"pray, Sir, Withdraw". 1文平均29単語の長い文章がつづくなかで、わずか3語の例外的にみじかい命令文である。
(31)PRO, SP 44/79A.
(32)P. K. Monod, Jacobitism and the English People, 121.
(33)PRO, SP 35/11/110-113, 131 (31 March 1718).
(34)P. K. Monod, Jacobitism and the English People, 121-122.
(35)ナタリ・Z・デイヴィス/近藤和彦・二宮宏之・福井憲彦「ナタリー・デイヴィスの知的展開」『季刊 iichiko』47号(1998)、123〜127、を参照。
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